あおいのママの昔の話です。ある年の春にカレと出会いました。きっかけはお互いの知人を通じての紹介です。仮にAさんとしておきますが、そのAさんと私が一緒に写っていた写真をカレが見て「紹介してほしい」と頼んだそうです。現在の私を知っている友人の皆さんは「カレは一体どんな趣味してたの?」とあきれちゃうだろうけど、こんなオバちゃんにも若くてかわいい頃?もあったんですよん。
で、Aさんの紹介でカレから電話がありました。私の好きなプロ野球選手と同じ大学出身だったりして、とにかくスポーツ関係の話でかなり話は合いましたが、でもその頃、ちょうど私は前のカレシと別れ、やっと傷も癒え始めたばかりでした。だから私は気の合う友だちとしてしか付き合うつもりはなかったんです。
しばらく電話でのやり取りをして実際に会うことになり、渋谷のモヤイ像の前で待ち合わせの約束をしました。私はカレの声だけで顔を知らなかったので、時間になって声をかけてくれるのを待っていたのですが、時間になっても誰も声をかけてくれません。15分くらい経ってもう帰ろうかなと思った時、さっきから私をチラチラ見ていた男性が早口で「もしかして○○さんですか?」と聞いてきたと思ったら「あっ、違いますよね」と、とっとと行ってしまいそうになりました。私はあっけにとられましたが、何とか「私です」と答えることができました。
仕事が忙しかったにしてもいきなり遅刻してくるし、会ってみたらものすごく痩せていて背も低い人でした。その頃のもてる男性の代名詞はまず背が高いこと。(三高とも言ったかな?)何て言うのかヤサオトコにしか見えません。ちょっとハーフっぽい色黒の人。何だか思っていた人と違う・・・。これが第一印象でした。
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2008年05月20日
2008年03月31日
高校受験の思い出(2)
*あおいのママの昔の話です。今回は高校受験の日の思い出を2回に分けて書いています。よろしかったらご覧になってください。
*高校受験の思い出(1)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/91667022.html
続き
高校受験2日目は集団面接・個人面接でした。この日のためにみんな前もって学校で面接の練習をしてきました。大体、試験官から聞かれることは決まっているようなので、それに対してどうやって受け答えすればいいのか、色んな想定をしながら練習していたと思います。当日、最初に集団面接がありました。同じ中学の子が5〜6人一緒でした。教室に入ると数人の先生の前に椅子が横並びになっており、一人一人座りました。そしていよいよ質問を受けます。私はすでにあがってしまって、みんなが何を聞かれ何て答えたのか全然頭に入ってきませんでした。そんな中、とうとう私が質問されました。
「あなたのクラスはどんなクラスですか?」という感じで聞かれましたが、私は何にも考えられず、ただ何か答えなくてはいけないという気持ちだけでした。「はい、とても元気なクラスで、休み時間になるとみんなが教室でもグランドでも走り回っています」と答えたと記憶しています。言い方がおかしかったのか、「そうなんですか。とても元気なクラスですね」と先生方が笑いをこらえているのが分かりました。この当時、校内暴力などが社会問題化され始めていましたので、そういった質問になったのだと思います。もっと違った気の利いた答えが出せないのかと私は落ち込みました。
集団面接が終わると今度は個人面接です。教室を出てそれぞれ指定された教室に行きます。集団の教室と同じ階で、廊下を歩いて行って右手側の教室に一人一人入っていきました。私は一番奥の教室で、入口には男の先生が待っていました。私がキョロキョロと落着きがなく心配そうにしていたので、その先生が「頑張れよ!」と明るく声をかけてくれました。それがとてもうれしかったです。本当に一息つけました。
それから教室に入ろうとして入口のドアを引いてみたのですが、建てつけが悪いようで戸が上手く開かないんです。あれっ?どうしたのかなぁ?と思いっきり引っ張ったところ開きました。力が入りすぎてガッシャーンっていう大きな音とともに・・・。いきなり「済みません」から始まりました。
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*高校受験の思い出(1)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/91667022.html
続き
高校受験2日目は集団面接・個人面接でした。この日のためにみんな前もって学校で面接の練習をしてきました。大体、試験官から聞かれることは決まっているようなので、それに対してどうやって受け答えすればいいのか、色んな想定をしながら練習していたと思います。当日、最初に集団面接がありました。同じ中学の子が5〜6人一緒でした。教室に入ると数人の先生の前に椅子が横並びになっており、一人一人座りました。そしていよいよ質問を受けます。私はすでにあがってしまって、みんなが何を聞かれ何て答えたのか全然頭に入ってきませんでした。そんな中、とうとう私が質問されました。
「あなたのクラスはどんなクラスですか?」という感じで聞かれましたが、私は何にも考えられず、ただ何か答えなくてはいけないという気持ちだけでした。「はい、とても元気なクラスで、休み時間になるとみんなが教室でもグランドでも走り回っています」と答えたと記憶しています。言い方がおかしかったのか、「そうなんですか。とても元気なクラスですね」と先生方が笑いをこらえているのが分かりました。この当時、校内暴力などが社会問題化され始めていましたので、そういった質問になったのだと思います。もっと違った気の利いた答えが出せないのかと私は落ち込みました。
集団面接が終わると今度は個人面接です。教室を出てそれぞれ指定された教室に行きます。集団の教室と同じ階で、廊下を歩いて行って右手側の教室に一人一人入っていきました。私は一番奥の教室で、入口には男の先生が待っていました。私がキョロキョロと落着きがなく心配そうにしていたので、その先生が「頑張れよ!」と明るく声をかけてくれました。それがとてもうれしかったです。本当に一息つけました。
それから教室に入ろうとして入口のドアを引いてみたのですが、建てつけが悪いようで戸が上手く開かないんです。あれっ?どうしたのかなぁ?と思いっきり引っ張ったところ開きました。力が入りすぎてガッシャーンっていう大きな音とともに・・・。いきなり「済みません」から始まりました。
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高校受験の思い出(1)
*しばらく都合によりお休みさせていただきました。また再開致します。あおいのママは昔の話を時々書いていますが、今回は高校受験の日の思い出を2回に分けて書いていこうと思っています。いつもくだらない話につきあってくださる皆さんに感謝しつつ、また「何、それ?」って言われちゃいそうだけど、書きたいと思います。
私の田舎の中学ではほとんどの子が受ける高校は県立1校のみでした。私立を受ける子もいましたが、よほど行きたいとかスポーツなどの特待生、県立合格が不安で滑り止め用に、またはきょうだいや親せきの家がそばにあるなどの事情の数人以外はみな県立を受けます。私立の場合、三島市とか沼津市、清水市等々になるので、交通機関の事情もあって自宅通学が難しいため、主に下宿や寮生活になってしまい、親の負担もかなり大きくなります。ですからほとんどの子は県立高校1校だけを受験するのです。
私たちの中学が受けられる県立高校は、伊東商業・稲取・下田北・下田南(南伊豆分校含む)のみ。(現在は城ヶ崎もOK)受験日は同じ日だから、それぞれ自分の実力に合った落ちないような高校を受験します。私は下田の高校を受験しました。この高校は中学校側が特に確実に受かる子しか受けさせない高校で、事実、毎年ほとんど落ちる子はいません。内申書がかなりものを言う学校なんです。私は勉強の方はとんとダメなんですが、中学3年生の夏に地区の陸上大会である競技種目で入賞したので、それがとても大きかったようです。
同じ中学から私を含め14人がこの高校を受験することになりましたが、みんなに聞いてみると、担任の先生から「100パーセント大丈夫!」と太鼓判を押されたそうなんです。でも私は「98パーセント大丈夫!」と言われていたので、その2パーセントがものすごく気になって、とにかくもう不安でいっぱいになってしまいました。その話を聞いた両親もまた心配になり、担任の先生は近くに住んでいて、父がたまたまその年のPTA役員をしていたので一週間前に先生のお宅に飛んで行き、「別の学校を受けた方がいいのではないか」と相談に行きました。先生がその時に「大丈夫です」と言ってくれたので、取りあえずそれを信じることにしましたが、今思えば親子そろって恥ずかしく、顔から火が出そうです。
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私の田舎の中学ではほとんどの子が受ける高校は県立1校のみでした。私立を受ける子もいましたが、よほど行きたいとかスポーツなどの特待生、県立合格が不安で滑り止め用に、またはきょうだいや親せきの家がそばにあるなどの事情の数人以外はみな県立を受けます。私立の場合、三島市とか沼津市、清水市等々になるので、交通機関の事情もあって自宅通学が難しいため、主に下宿や寮生活になってしまい、親の負担もかなり大きくなります。ですからほとんどの子は県立高校1校だけを受験するのです。
私たちの中学が受けられる県立高校は、伊東商業・稲取・下田北・下田南(南伊豆分校含む)のみ。(現在は城ヶ崎もOK)受験日は同じ日だから、それぞれ自分の実力に合った落ちないような高校を受験します。私は下田の高校を受験しました。この高校は中学校側が特に確実に受かる子しか受けさせない高校で、事実、毎年ほとんど落ちる子はいません。内申書がかなりものを言う学校なんです。私は勉強の方はとんとダメなんですが、中学3年生の夏に地区の陸上大会である競技種目で入賞したので、それがとても大きかったようです。
同じ中学から私を含め14人がこの高校を受験することになりましたが、みんなに聞いてみると、担任の先生から「100パーセント大丈夫!」と太鼓判を押されたそうなんです。でも私は「98パーセント大丈夫!」と言われていたので、その2パーセントがものすごく気になって、とにかくもう不安でいっぱいになってしまいました。その話を聞いた両親もまた心配になり、担任の先生は近くに住んでいて、父がたまたまその年のPTA役員をしていたので一週間前に先生のお宅に飛んで行き、「別の学校を受けた方がいいのではないか」と相談に行きました。先生がその時に「大丈夫です」と言ってくれたので、取りあえずそれを信じることにしましたが、今思えば親子そろって恥ずかしく、顔から火が出そうです。
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2007年11月22日
沢口靖子も!?
あおいのママが新婚の頃、よく行っていた内科医院でのお話です。その頃、私たちは神奈川県川崎市に住んでいて、それぞれ東京・原宿にある会社(別々の)に勤める共働き夫婦でした。通勤時間は1時間弱で、私の会社はほとんど残業もなく定時に帰宅できるので、主婦業と両立するにはわりと楽な方だったと思います。
そんないい環境でもやはり毎日の疲れがたまるとダウンしてしまうことが何度かありました。そんな時は必ず近くの内科医院に行きました。
そこの先生はとても親しみやすい先生で、きちんと診察をしてくれるし、薬の説明や心配なことがあってもちゃんと話を聞いてくれる、当たり前のことだけど当たり前のことをきちんと丁寧にしてくれる本当にいい先生でした。看護師さんたちも優しい方ばかりでした。
ある日、また具合が悪くなったのでその医院に行きました。いつものように尿検査やのどの吸引、簡易ベッドに横になりながらの点滴、そして診察、薬をもらって帰りました。体調崩しても仕事がなかなか休めないので、こうして点滴を打ってもらうとだいぶ良くなるし本当に助かります。またここの薬は私の体に合うようで、とっても良く早く効きました。これでもう無茶しなければ安心です。数日後には元気になる、はずでした。
しかしこの時はしつこいカゼだったのか、いつもだったらすぐ良くなるのになかなか良くなりませんでした。しかも何故か手に力が入らない上、ふるえるのです。
これはおかしいと思い、あわててまた医院にすっ飛んで行きました。不安な気持ちのまま、混み合う待合室で名前を呼ばれるのをジッと待ちました。
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そんないい環境でもやはり毎日の疲れがたまるとダウンしてしまうことが何度かありました。そんな時は必ず近くの内科医院に行きました。
ある日、また具合が悪くなったのでその医院に行きました。いつものように尿検査やのどの吸引、簡易ベッドに横になりながらの点滴、そして診察、薬をもらって帰りました。体調崩しても仕事がなかなか休めないので、こうして点滴を打ってもらうとだいぶ良くなるし本当に助かります。またここの薬は私の体に合うようで、とっても良く早く効きました。これでもう無茶しなければ安心です。数日後には元気になる、はずでした。
しかしこの時はしつこいカゼだったのか、いつもだったらすぐ良くなるのになかなか良くなりませんでした。しかも何故か手に力が入らない上、ふるえるのです。
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2007年05月02日
セーラー服でサッカー
中学の卒業式を数日後に控えたある日のこと、クラスの女子が放課後ほとんど教室に残っていた。あと少しでそれぞれの道を歩いて行くと思うとなかなか帰れなかった。この半分近くは、それこそ幼稚園から小学校・中学校とずっと一緒で、物心ついた時にはみんな友だちだった。
私の行く高校には同じ中学から女子13人だけ。15歳にして初めて別れを意識した。早く大人になってここから飛び出したいと思っていたけど、いざその日が近づいてくると急に寂しく悲しくなってしまった。それはきっと私だけではなかったと思う。
突然誰かが「ねぇ、女子でサッカーやろうよ!」と言った。そしてみんな「うん、やろう!」と一斉にグランドに飛び出した。いつもだったら、「えー、疲れるからやだ!」って言う子が必ずいるのに、この時は誰も反対しなかった。
セーラー服で広いピッチをゴール目指して走った。ほとんど誰もパスなんてしない。そんな技術はもともとないし、ただただシュートを決めたくて全員がボールと同じ方向に走って行く。みんながフォワードになってる。長いスカートが邪魔で走りにくいし、すっごく疲れる。それでもみんなはぁはぁと息を切らして一生懸命にボールを追っていた。きっともう会えなくなっちゃう子もいるだろうなと感じていたけど、「また会おうよね」と言った。
結局自分のチームが勝ったのか負けたのか全然覚えていない。でも今までやったサッカーで一番楽しかった。私の春の日の大切な思い出。あれから25年以上経ったけど、やはり卒業後一度も会えない子もいる。若くして亡くなってしまった同級生もいる。
私の行く高校には同じ中学から女子13人だけ。15歳にして初めて別れを意識した。早く大人になってここから飛び出したいと思っていたけど、いざその日が近づいてくると急に寂しく悲しくなってしまった。それはきっと私だけではなかったと思う。
突然誰かが「ねぇ、女子でサッカーやろうよ!」と言った。そしてみんな「うん、やろう!」と一斉にグランドに飛び出した。いつもだったら、「えー、疲れるからやだ!」って言う子が必ずいるのに、この時は誰も反対しなかった。
セーラー服で広いピッチをゴール目指して走った。ほとんど誰もパスなんてしない。そんな技術はもともとないし、ただただシュートを決めたくて全員がボールと同じ方向に走って行く。みんながフォワードになってる。長いスカートが邪魔で走りにくいし、すっごく疲れる。それでもみんなはぁはぁと息を切らして一生懸命にボールを追っていた。きっともう会えなくなっちゃう子もいるだろうなと感じていたけど、「また会おうよね」と言った。
結局自分のチームが勝ったのか負けたのか全然覚えていない。でも今までやったサッカーで一番楽しかった。私の春の日の大切な思い出。あれから25年以上経ったけど、やはり卒業後一度も会えない子もいる。若くして亡くなってしまった同級生もいる。
2007年04月13日
シュガーポットの彼
私が中学2年生の時、幼なじみの男の子を好きになった。彼とは小学校1年〜4年生まで同じクラスで、中学に上がってまた同じクラスになった。小さな頃から知っていたのに、不思議だけど突然好きになってしまった。
2月のバレンタインデーが近づくにつれ、女の子はみんなソワソワ。何といっても思春期の女の子たちにとって最大のイベントだもの、好きな子にどんなチョコレートを贈ろうか、どうやって告白しようか、誰が誰にあげるかなどなど、友だち同士で相談したり情報交換したり。この時代はほとんどが本命で義理はまだ少なかった。
しばらくして、彼は小学生の頃から毎年2月14日は学校を休むのが恒例だと知った。昔、女の子にせまられて困ったのが原因とか。そんなにモテて羨ましく思う男の子もいるだろうに、中学生になってもやはり休んでいたという。
「じゃあ、チョコは受け取ってもらえないなぁ・・・」と私がシュンとしていたところ、友だちが気を利かせて?直接彼に交渉してくれた。「14日に○○ちゃんがチョコを渡したいっていうから、絶対に学校に来てよ!」と言ったらしい。そ、そんなストレートな・・・って思ったけど、彼は「わかったよ」と答えてくれたそう。でも当日まで本当に学校に来るかどうかわからなかった。
この時、14歳の私が思いを込めて作ったのは“トリュフ”。ひとつひとつ丁寧に手で丸めて、大き目のガラスビンの中いっぱいに入れてフタをした。リボンも結んだかな。カードには「好きです」って書いた記憶も。(恥ずかし〜)
当日、学校では朝早くから女の子たちが思い思いのチョコレートを見せ合いっこしていた。私もみんなにせがまれて、ビン詰めした“トリュフ”を見せたら、言葉を失ったようだった。「ねぇ、それあげるの?何かお団子をぎゅうぎゅうに詰めたみたいだねぇ・・・」と不評だったけど、「見た目より味よ!」と自分を慰めた。
でもやっぱり直接手渡す勇気がなくて、結局友だちが何年かぶりに14日に登校してきた彼に渡してくれた。後に「食べたよ」とだけ。普段と変わらない様子だったが、それでも私は満足だった。
次の年は、事前に自分で「チョコいる?」って聞いてみたけど、「今年はいらないよ」と断られたのであげなかった。卒業後、別々の高校に通うので、最後にと思ったんだけど・・・。ちょっと悲しかった。
それから5年後の成人式で、久しぶりにその彼と会った。お互いひとり暮らしの学生で、首都圏の大学に通っていることなど、話は尽きなかった。そして帰り際、突然彼が言った。「中学の時もらったチョコレートのビン、シュガーポットにして今でも下宿で使っているんだよ」と。
私はすっかり忘れていたので、最初は何のことだかわからなかったが、彼があの日を覚えているのにも驚いた。あの大きなガラスのビンを5年間大切に持っていてくれたんだ。「大事に使ってくれてありがとう」とお礼を言った。
その後も私が結婚するまで何度か会った。今は疎遠になってしまったが、きっといいお父さんになっているだろう。いつか地元の同窓会で会えるかな。
その彼は13日生まれだった。月は違えども私は13日にはいくつかの縁がある。私自身も13日生まれだし、夫も実妹も甥もそう。他にも知人や友人のお子さん、学生時代好きだった人も13日生まれだった。みんな「13日の金曜日」が必ずやってくる。
今日は4月13日(金)。硬派だけど優しかった、シュガーポットの彼を思い出した。
2月のバレンタインデーが近づくにつれ、女の子はみんなソワソワ。何といっても思春期の女の子たちにとって最大のイベントだもの、好きな子にどんなチョコレートを贈ろうか、どうやって告白しようか、誰が誰にあげるかなどなど、友だち同士で相談したり情報交換したり。この時代はほとんどが本命で義理はまだ少なかった。
しばらくして、彼は小学生の頃から毎年2月14日は学校を休むのが恒例だと知った。昔、女の子にせまられて困ったのが原因とか。そんなにモテて羨ましく思う男の子もいるだろうに、中学生になってもやはり休んでいたという。
「じゃあ、チョコは受け取ってもらえないなぁ・・・」と私がシュンとしていたところ、友だちが気を利かせて?直接彼に交渉してくれた。「14日に○○ちゃんがチョコを渡したいっていうから、絶対に学校に来てよ!」と言ったらしい。そ、そんなストレートな・・・って思ったけど、彼は「わかったよ」と答えてくれたそう。でも当日まで本当に学校に来るかどうかわからなかった。
この時、14歳の私が思いを込めて作ったのは“トリュフ”。ひとつひとつ丁寧に手で丸めて、大き目のガラスビンの中いっぱいに入れてフタをした。リボンも結んだかな。カードには「好きです」って書いた記憶も。(恥ずかし〜)
当日、学校では朝早くから女の子たちが思い思いのチョコレートを見せ合いっこしていた。私もみんなにせがまれて、ビン詰めした“トリュフ”を見せたら、言葉を失ったようだった。「ねぇ、それあげるの?何かお団子をぎゅうぎゅうに詰めたみたいだねぇ・・・」と不評だったけど、「見た目より味よ!」と自分を慰めた。
でもやっぱり直接手渡す勇気がなくて、結局友だちが何年かぶりに14日に登校してきた彼に渡してくれた。後に「食べたよ」とだけ。普段と変わらない様子だったが、それでも私は満足だった。
次の年は、事前に自分で「チョコいる?」って聞いてみたけど、「今年はいらないよ」と断られたのであげなかった。卒業後、別々の高校に通うので、最後にと思ったんだけど・・・。ちょっと悲しかった。
それから5年後の成人式で、久しぶりにその彼と会った。お互いひとり暮らしの学生で、首都圏の大学に通っていることなど、話は尽きなかった。そして帰り際、突然彼が言った。「中学の時もらったチョコレートのビン、シュガーポットにして今でも下宿で使っているんだよ」と。
私はすっかり忘れていたので、最初は何のことだかわからなかったが、彼があの日を覚えているのにも驚いた。あの大きなガラスのビンを5年間大切に持っていてくれたんだ。「大事に使ってくれてありがとう」とお礼を言った。
その後も私が結婚するまで何度か会った。今は疎遠になってしまったが、きっといいお父さんになっているだろう。いつか地元の同窓会で会えるかな。
その彼は13日生まれだった。月は違えども私は13日にはいくつかの縁がある。私自身も13日生まれだし、夫も実妹も甥もそう。他にも知人や友人のお子さん、学生時代好きだった人も13日生まれだった。みんな「13日の金曜日」が必ずやってくる。
今日は4月13日(金)。硬派だけど優しかった、シュガーポットの彼を思い出した。
2006年10月30日
銭湯に通う18歳

*写真は学生時代に東京ディズニーランドで撮影しました。(毎年課外授業で行きました)
あおいのママは高校を卒業した18歳の春に上京しました。何とかかんとか短大に合格し、渋谷区幡ヶ谷のアパートで下宿生活をスタートさせることになりました。初めての一人暮らしに期待と不安でいっぱい、勉強もついていけるのかなぁって、それも心配でした。入学式の後、母と妹は帰ってしまい、とうとう一人に。その夜は寂しくて泣いたっけ。
アパートは六畳一間に小さな台所とベランダ、トイレは大家さんと共同でお風呂付ではありませんでした。近くに銭湯があったので、そこに通うことになったのですが、私は子どもの頃、銭湯に通ったことがあります。でもあまり覚えておらず、ほとんど初めてと同じでした。(ママが学生の頃は今と違って一人暮らしの子はだいたい銭湯通いをしていました)
それでドキドキしながら銭湯に行ったのですが、ドアを開けて脱衣場に入るととにかく驚きの連続でした。まず番台に男の人が座っているんです。30代か40代の男性・・・。ショックでした。ウソでしょうー!みんな平気で裸になってる!!どうしよう〜。しばらく服を脱ぐことが出来ませんでした。もじもじしながら真ん中にあるロッカーを壁にするようにしゃがんで、隠れながら裸になりました。そしてあわてて風呂場に入って行ったんです。ふぅ〜。
周りを見てみると皆さん、ロッカーの鍵を腕につけて体を洗ったり湯船に入っていました。私もそうしました。それにしても恥ずかしくって、端っこでコソコソとシャワーを浴びて、湯船に誰もつかっていない時を見計らい、サササーって行って。すると湯の温度が違う2つの湯船。少し低めの方に入ろうとしましたが、これがまた私には熱くて入れないんです。水をジャージャー入れたら他の皆さんに迷惑になるし、なかなか入れず困りました。やっとの思いでお湯につかっても、ゆっくり入ってはいられません。(ホント熱いんだから!)
そして入浴を済ませると、またまた脱衣場で着がえをしなければいけない。風呂場を出て急いでロッカーの陰に隠れるように体を拭ことしていたら、偶然にも番台の向こうに男性がお金を払っていて、裸の私と目が合ってしまいました。もう恥ずかしさで気が遠くなりそうでした。花も恥らう乙女?だった私は濡れた髪もろくに拭かないまま、逃げるようにアパートへ帰りました。
「もう二度と銭湯には行きたくない!!」と思いましたが、お風呂に入らないわけにはいかないわけで、それからも泣く泣く毎日通い続けました。で、しばらくするとあの初日の恥じらいもなくなり、番台の方も男風呂の男性も気にならなくなりました。たまに裸を見られてもぜ〜んぜん平気に。う〜ん、慣れとは恐ろしいですネ!(^^)
2006年04月20日
点鼻薬と便秘薬
あおいのママとパパが神奈川県川崎市に住んでいた頃のお話です。結婚2年くらいの頃、ママは薬局にパートで働いていました。店長さんは1つ年上で、パート・アルバイト共にみんな若い人が多いお店でした。
ある日、隣の支店のA店長さんが来ました。その方は爽やか系のステキな方で、ママはとっても憧れていました。このお店で働きたいと思ったのも、その方が勤めているお店(支店はちがうけど)だったからなんです。我ながらミーハーです。
A店長さんがいらしていたので、私はもう仕事も上の空でした。その日に一緒にいたアルバイトの子はまだ高校生だったのですが、とってもしっかりとした子で、どういうわけか私と気が合って、おっちょこちょいな私をいつもサポートしてくれていました。(しかもすごい美人なんですよ〜)
お客様がいらしてA店長さんに声をかけていました。たまたま側にいた私に「あっ、○○さん!“てんびやく”はどこにありますか?」と尋ねられました。自分のお店じゃないので、どこに何があるのかわからなくて聞いたようでした。
突然憧れの店長さんから声をかけられて、うれしいのと緊張で固まってしまいました。頭の中は真っ白になりました。「はいっ、“べんぴやく”ですね!こちらですっ!!」とご案内・・・。「あの、“便秘薬”じゃなくて“点鼻薬”ですよ〜」と笑われてしまいました・・・。
あまりの恥ずかしさに逃げるようにレジに戻ろうとして転んでしまい、アルバイトの子に「○○さん、落ち着いてネ〜!」と助けられる始末・・・。その後も何をしても不調でした。「本当に好きなんですねぇ」とみんなにからかわれてしまいました。
でもこの件のおかげで?A店長さんに顔を覚えられたようで、街中で会ったりした時は声をかけてくださいました。せっかくお話できる仲?までになったのに、その後私たちは千葉県柏市に引っ越すことになってしまい、ご挨拶もできないままにさよならしました。そして「絶対に2〜3年で川崎市に戻って来るぞ!」と心に決めていたのに、それから15年、今ではすっかり柏市民となって腰を下ろしてしまいました。
A店長さん、お元気かしら。春の(花粉症の)季節になると“点鼻薬”と“便秘薬”を聞き間違えたことを思い出します。
★ちなみにこのアルバイトの子はその後イギリスに留学しましたが、何度かエアメールを送ってくれました。高校生から見たら私はオバちゃんなのに、本当にうれしかった記憶があります。今ではいい奥さん・ママになっているだろうなぁ。
★お店もあの頃はバブルのいい時だったので、セールの時なんかはレジ待ちが外まで並んで(数十メートルも!)しかもパートさんにも年中大入り袋を出していました。メーカーさんからはいろんな物いただいてそのおこぼれも振舞われ(お鍋とか時計とか)、主婦の私たちにとっては本当にいい時代でした。
ある日、隣の支店のA店長さんが来ました。その方は爽やか系のステキな方で、ママはとっても憧れていました。このお店で働きたいと思ったのも、その方が勤めているお店(支店はちがうけど)だったからなんです。我ながらミーハーです。
A店長さんがいらしていたので、私はもう仕事も上の空でした。その日に一緒にいたアルバイトの子はまだ高校生だったのですが、とってもしっかりとした子で、どういうわけか私と気が合って、おっちょこちょいな私をいつもサポートしてくれていました。(しかもすごい美人なんですよ〜)
お客様がいらしてA店長さんに声をかけていました。たまたま側にいた私に「あっ、○○さん!“てんびやく”はどこにありますか?」と尋ねられました。自分のお店じゃないので、どこに何があるのかわからなくて聞いたようでした。
突然憧れの店長さんから声をかけられて、うれしいのと緊張で固まってしまいました。頭の中は真っ白になりました。「はいっ、“べんぴやく”ですね!こちらですっ!!」とご案内・・・。「あの、“便秘薬”じゃなくて“点鼻薬”ですよ〜」と笑われてしまいました・・・。
あまりの恥ずかしさに逃げるようにレジに戻ろうとして転んでしまい、アルバイトの子に「○○さん、落ち着いてネ〜!」と助けられる始末・・・。その後も何をしても不調でした。「本当に好きなんですねぇ」とみんなにからかわれてしまいました。
でもこの件のおかげで?A店長さんに顔を覚えられたようで、街中で会ったりした時は声をかけてくださいました。せっかくお話できる仲?までになったのに、その後私たちは千葉県柏市に引っ越すことになってしまい、ご挨拶もできないままにさよならしました。そして「絶対に2〜3年で川崎市に戻って来るぞ!」と心に決めていたのに、それから15年、今ではすっかり柏市民となって腰を下ろしてしまいました。
A店長さん、お元気かしら。春の(花粉症の)季節になると“点鼻薬”と“便秘薬”を聞き間違えたことを思い出します。
★ちなみにこのアルバイトの子はその後イギリスに留学しましたが、何度かエアメールを送ってくれました。高校生から見たら私はオバちゃんなのに、本当にうれしかった記憶があります。今ではいい奥さん・ママになっているだろうなぁ。
★お店もあの頃はバブルのいい時だったので、セールの時なんかはレジ待ちが外まで並んで(数十メートルも!)しかもパートさんにも年中大入り袋を出していました。メーカーさんからはいろんな物いただいてそのおこぼれも振舞われ(お鍋とか時計とか)、主婦の私たちにとっては本当にいい時代でした。
2006年02月26日
鳩の恩返し
もう10年くらい前になりますが、あおいのママとパパは南柏の社宅に住んでいました。今日のような雨の日の午後、庭に一羽の鳩が柿の木の下で休んでいました。よくよく見ると片足をケガしているようでした。
しばらく様子を見ていたのですが、飛び立つ様子もなく、動けないでいます。このまま放っておいたら、猫がよく来る庭だから、襲われても逃げることができそうもないので、庭に出てその傷ついた鳩を捕まえました。やはり思った通り、逃げることもできずに私に簡単に捕まってしまいました。「グヮー、グヮー」って鳴いていましたが成すがままでした。
とりあえずダンボール箱に入れて、動物愛護協会に連絡をしました。これからどうしたらいいのかわからなかったし、鳩の足首に何か数字など書いてある足輪がはめてあったので、もしかして飼い主がわかるかもしれないと思いました。
足輪の話をしたら「伝書鳩協会に連絡をしてみてください」と紹介をされ、すぐに電話をしました。この子は伝書鳩だったようで、協会の方が迎えに来てくれることになりました。ちょうどその日、ママは午後からパートの日で「帰宅は夜8時頃になるのでどうしたらいいですか」と聞いたら「そのままダンボール箱に水を入れて置いてください」ということでした。
仕事から帰ると社宅の前に協会の方が待っていてくれました。「ポッポちゃん、バイバイ」って、ちょっとの時間でしたが一緒に過ごしたので声をかけました。相変わらず目を合わせると「グヮー、グヮー」と怒っているみたいでしたが、何だか別れるのが寂しく感じました。
協会の方が「これはお礼です」と封筒を渡してきました。お断りしたのですが「どうしても」ということだったので、いただきました。あとで封を開けてみたらそれは数枚の“ビール券”でした。
鳩の恩返しはビール券。パパと二人でありがたくおいしくいただきました。
現在、私たちはその社宅から引っ越してマンション暮らしなんですが、ベランダの前にちょうど電線があって、そこに鳥たちが羽休みをしているのを間近で見ることができます。たまに「ポッポッポー」って鳩が鳴いていると、思わず「あの時のポッポちゃんでは」とベランダに出て探してしまいます。あの赤茶けた羽の鳩が会いに来たのではと。
今日のような雨の日の午後はポッポちゃんのことを思い出します。
しばらく様子を見ていたのですが、飛び立つ様子もなく、動けないでいます。このまま放っておいたら、猫がよく来る庭だから、襲われても逃げることができそうもないので、庭に出てその傷ついた鳩を捕まえました。やはり思った通り、逃げることもできずに私に簡単に捕まってしまいました。「グヮー、グヮー」って鳴いていましたが成すがままでした。
とりあえずダンボール箱に入れて、動物愛護協会に連絡をしました。これからどうしたらいいのかわからなかったし、鳩の足首に何か数字など書いてある足輪がはめてあったので、もしかして飼い主がわかるかもしれないと思いました。
足輪の話をしたら「伝書鳩協会に連絡をしてみてください」と紹介をされ、すぐに電話をしました。この子は伝書鳩だったようで、協会の方が迎えに来てくれることになりました。ちょうどその日、ママは午後からパートの日で「帰宅は夜8時頃になるのでどうしたらいいですか」と聞いたら「そのままダンボール箱に水を入れて置いてください」ということでした。
仕事から帰ると社宅の前に協会の方が待っていてくれました。「ポッポちゃん、バイバイ」って、ちょっとの時間でしたが一緒に過ごしたので声をかけました。相変わらず目を合わせると「グヮー、グヮー」と怒っているみたいでしたが、何だか別れるのが寂しく感じました。
協会の方が「これはお礼です」と封筒を渡してきました。お断りしたのですが「どうしても」ということだったので、いただきました。あとで封を開けてみたらそれは数枚の“ビール券”でした。
鳩の恩返しはビール券。パパと二人でありがたくおいしくいただきました。
現在、私たちはその社宅から引っ越してマンション暮らしなんですが、ベランダの前にちょうど電線があって、そこに鳥たちが羽休みをしているのを間近で見ることができます。たまに「ポッポッポー」って鳩が鳴いていると、思わず「あの時のポッポちゃんでは」とベランダに出て探してしまいます。あの赤茶けた羽の鳩が会いに来たのではと。
今日のような雨の日の午後はポッポちゃんのことを思い出します。
2006年02月14日
先生が好き
あおいのママは高校時代、学校のK先生が好きでした。
下田の高校に入学した15歳の春に先生と出会いました。当時、幼なじみの子のクラスの先生がK先生で、その子が「かっこいいよ」って教えてくれて、そっとノゾキに行って一目惚れしてしまいました。
それから卒業するまでの3年間、先生のことが好きで、用事もないのに職員室に毎日行ったり、放課後になると先生がグランドで走っていたので、真っ暗になるまで教室の窓からこっそり応援していたりしました。
クラスのみんなには先生が好きなのを知られていて(年中「先生が好きっ!」って言っていたから)よく「おじん趣味だぁ〜!」って笑われました。そう、先生は私たちよりひと回り年上だったんです。
先生は市内の独身寮に住んでいました。食事を作りに行くなんてことはできないので、お菓子を作っては職員室に毎週のように持って行きました。そのおこぼれを担任の先生やその他独身の先生たちに配っていました。「今日はお菓子なに?」なんて言われたりしました。
家でも「今日先生がね・・・」って毎日のように話して、お菓子の失敗作とか残りものとか、父や母や妹たちが楽しみにしていて、「もっと作ってよ〜」ってよく言われたっけ。
ホント、いろいろ作りました。クッキー・タルト・クレープ・シュークリーム・パウンドケーキ・アップルパイ・チーズケーキ・バウムクーヘン・チョコレートケーキ・ババロア・スイートポテト・・・etc、ありとあらゆる洋菓子作って学校に持って行きました。
先生が本当に好きで、将来の夢は「お嫁さん」なんて言っていたくらいで、「18歳の花嫁さん」にとっても憧れていました。今はとんでもない夢を見ていたって思うけど。
今日はバレンタインデー。この高校3年間、毎年腕によりをかけてチョコレートのお菓子を作りました。大好きなK先生に食べてほしかったから。「好き」なんて言えなかったけど、思いを込めて愛情込めて甘いチョコレートを贈りました。「いつもありがとう」って言ってくれました。
卒業式の後、K先生と担任の先生が短大の合格祝いに下田のお店で食事をおごってくれました。駅で「元気で頑張れよ」と手を振って、そしてお別れしました。私は泣きながら帰りました。
それから5年後のママとパパの結婚式の日、二次会で担任だった先生から「この間K先生結婚したよ」と聞きました。自分だって結婚したのに、何故か懐かしく、そして寂しく、涙してしまいました。青春は終わったんだって思いました。
パパと過ごした18回のバレンタインデーは覚えていなくても、高校3年間の甘酸っぱい思い出は忘れないものなんですね。先生、元気にしているかなぁ。
下田の高校に入学した15歳の春に先生と出会いました。当時、幼なじみの子のクラスの先生がK先生で、その子が「かっこいいよ」って教えてくれて、そっとノゾキに行って一目惚れしてしまいました。
それから卒業するまでの3年間、先生のことが好きで、用事もないのに職員室に毎日行ったり、放課後になると先生がグランドで走っていたので、真っ暗になるまで教室の窓からこっそり応援していたりしました。
クラスのみんなには先生が好きなのを知られていて(年中「先生が好きっ!」って言っていたから)よく「おじん趣味だぁ〜!」って笑われました。そう、先生は私たちよりひと回り年上だったんです。
先生は市内の独身寮に住んでいました。食事を作りに行くなんてことはできないので、お菓子を作っては職員室に毎週のように持って行きました。そのおこぼれを担任の先生やその他独身の先生たちに配っていました。「今日はお菓子なに?」なんて言われたりしました。
家でも「今日先生がね・・・」って毎日のように話して、お菓子の失敗作とか残りものとか、父や母や妹たちが楽しみにしていて、「もっと作ってよ〜」ってよく言われたっけ。
ホント、いろいろ作りました。クッキー・タルト・クレープ・シュークリーム・パウンドケーキ・アップルパイ・チーズケーキ・バウムクーヘン・チョコレートケーキ・ババロア・スイートポテト・・・etc、ありとあらゆる洋菓子作って学校に持って行きました。
先生が本当に好きで、将来の夢は「お嫁さん」なんて言っていたくらいで、「18歳の花嫁さん」にとっても憧れていました。今はとんでもない夢を見ていたって思うけど。
今日はバレンタインデー。この高校3年間、毎年腕によりをかけてチョコレートのお菓子を作りました。大好きなK先生に食べてほしかったから。「好き」なんて言えなかったけど、思いを込めて愛情込めて甘いチョコレートを贈りました。「いつもありがとう」って言ってくれました。
卒業式の後、K先生と担任の先生が短大の合格祝いに下田のお店で食事をおごってくれました。駅で「元気で頑張れよ」と手を振って、そしてお別れしました。私は泣きながら帰りました。
それから5年後のママとパパの結婚式の日、二次会で担任だった先生から「この間K先生結婚したよ」と聞きました。自分だって結婚したのに、何故か懐かしく、そして寂しく、涙してしまいました。青春は終わったんだって思いました。
パパと過ごした18回のバレンタインデーは覚えていなくても、高校3年間の甘酸っぱい思い出は忘れないものなんですね。先生、元気にしているかなぁ。
2006年01月16日
指輪はどこに
あおいのママとパパは平成○年に結婚しました。結婚式でお互いに永遠の愛を誓い合い、その証に指輪を交換しました。ママの結婚指輪の内側には「'○○.5.27 T to A」と刻まれています。
パパの指輪には「A to T」と刻まれているのですが、今この指輪は行方不明です。二人の愛の証の大事なこの指輪を、パパは結婚2年の時になくしてしまったんです〜!!ひどいでしょ〜?
この当時私たちは神奈川県川崎市高津区に住んでいました。田園都市線の「梶ヶ谷駅」から徒歩20分くらいのアパートで結婚生活をスタートしました。その頃、パパは毎日通勤にバイクで駅まで行き、そこから電車で都心に通っていました。
仕事は営業なのですが、量販店などの応援販売などもあり、荷物を運んだりするのに指輪が傷ついてしまうので、その時はいつも財布の小銭入れに外して入れておいたそうなんです。
ある日、忙しくて疲れて、いつも作業の後に指輪をはめるのにそのことを忘れてしまって、財布の中に入れっぱなしにして帰宅しました。
いつも帰宅すると指輪を外して指輪入れに置きますが、指輪をしていないのに気がついて、バッグから財布を取り出そうとしたら、その財布がないんです!!
その日、梶ヶ谷駅から我が家に帰る途中で、バイクですっころんでしまって(大事には至らなかったのですが・・)その時にバッグの中身をばらしてしまったんだそうです。薄暗かったので、全部拾い集めたと思ったのですが、財布を忘れてしまったようです。慌てて現場に向って探したのですが、もう財布を見つけることはできませんでした。(泣)
警察にも問い合わせたのですが、財布は届けられていませんでした・・・。(当然か・・・)パパはお金やキャッシュカードをなくしたことよりも、指輪をなくしたことの方がショックだったようです。ママももちろんショックで、若かったのでギャンギャン責め立てた記憶があります。
数日後、我が家の留守番電話に「財布を拾いました。連絡ください。」と入っていまして、二人してすっごく喜んだのですが、その善意の方は連絡先をおっしゃってくれなかったので、また電話がかかってくると思い、その日から電話を待ち続けました。現在のように相手の電話番号がわかる時代ではなかったので、そうして待つしかなかったんです。
結局電話は二度とかかってきませんでした。その後私たちは千葉県柏市に引っ越してしまい、もう諦めるしかありませんでした。警察にも何度も問い合わせたのですが、やはりダメでした。
しかたなく新しい指輪を買ったのですが、パパはあまりしっくりこないらしく、現在でもあまりその指輪をはめません。まったく、まったく〜!!なけなしのお金で買った指輪なのに〜!!
でも、私はその後パパにこの件であまり強く言うことはできなくなりました。と言うのは、結婚前にパパに買ってもらったブレスレットや、実家からいただいた婚約指輪をなくしてしまったからです。(探せばもしかして出てくるかもしれないけれど・・・)
それだけではなく、ママは9月生まれで誕生石は“サファイア”なんですが、パパは2〜3度サファイアのネックレスを買ってくれたのですが、すべてその日にどこかに置き忘れてなくしてしまいました。
パパは結婚指輪のことがあったのでママに怒るに怒れず、しばらくフ〜ンとしていました。でも私はなくしたサファイアのネックレスたちに対しては、そんなに惜しいとは思っていません。だってすべてまがい物だから。すべて偽物なんだもん。
パパ、ごめんなさい。私には本物が似合うってことだと思っています。(ずーずーしいけど)
それにしてもあの結婚指輪は今どこにあるんだろう?ママは指輪をつけるたび、相棒がいなくなって寂しそうな指輪が気の毒になってしまいます。
パパの指輪には「A to T」と刻まれているのですが、今この指輪は行方不明です。二人の愛の証の大事なこの指輪を、パパは結婚2年の時になくしてしまったんです〜!!ひどいでしょ〜?
この当時私たちは神奈川県川崎市高津区に住んでいました。田園都市線の「梶ヶ谷駅」から徒歩20分くらいのアパートで結婚生活をスタートしました。その頃、パパは毎日通勤にバイクで駅まで行き、そこから電車で都心に通っていました。
仕事は営業なのですが、量販店などの応援販売などもあり、荷物を運んだりするのに指輪が傷ついてしまうので、その時はいつも財布の小銭入れに外して入れておいたそうなんです。
ある日、忙しくて疲れて、いつも作業の後に指輪をはめるのにそのことを忘れてしまって、財布の中に入れっぱなしにして帰宅しました。
いつも帰宅すると指輪を外して指輪入れに置きますが、指輪をしていないのに気がついて、バッグから財布を取り出そうとしたら、その財布がないんです!!
その日、梶ヶ谷駅から我が家に帰る途中で、バイクですっころんでしまって(大事には至らなかったのですが・・)その時にバッグの中身をばらしてしまったんだそうです。薄暗かったので、全部拾い集めたと思ったのですが、財布を忘れてしまったようです。慌てて現場に向って探したのですが、もう財布を見つけることはできませんでした。(泣)
警察にも問い合わせたのですが、財布は届けられていませんでした・・・。(当然か・・・)パパはお金やキャッシュカードをなくしたことよりも、指輪をなくしたことの方がショックだったようです。ママももちろんショックで、若かったのでギャンギャン責め立てた記憶があります。
数日後、我が家の留守番電話に「財布を拾いました。連絡ください。」と入っていまして、二人してすっごく喜んだのですが、その善意の方は連絡先をおっしゃってくれなかったので、また電話がかかってくると思い、その日から電話を待ち続けました。現在のように相手の電話番号がわかる時代ではなかったので、そうして待つしかなかったんです。
結局電話は二度とかかってきませんでした。その後私たちは千葉県柏市に引っ越してしまい、もう諦めるしかありませんでした。警察にも何度も問い合わせたのですが、やはりダメでした。
しかたなく新しい指輪を買ったのですが、パパはあまりしっくりこないらしく、現在でもあまりその指輪をはめません。まったく、まったく〜!!なけなしのお金で買った指輪なのに〜!!
でも、私はその後パパにこの件であまり強く言うことはできなくなりました。と言うのは、結婚前にパパに買ってもらったブレスレットや、実家からいただいた婚約指輪をなくしてしまったからです。(探せばもしかして出てくるかもしれないけれど・・・)
それだけではなく、ママは9月生まれで誕生石は“サファイア”なんですが、パパは2〜3度サファイアのネックレスを買ってくれたのですが、すべてその日にどこかに置き忘れてなくしてしまいました。
パパは結婚指輪のことがあったのでママに怒るに怒れず、しばらくフ〜ンとしていました。でも私はなくしたサファイアのネックレスたちに対しては、そんなに惜しいとは思っていません。だってすべてまがい物だから。すべて偽物なんだもん。
パパ、ごめんなさい。私には本物が似合うってことだと思っています。(ずーずーしいけど)
それにしてもあの結婚指輪は今どこにあるんだろう?ママは指輪をつけるたび、相棒がいなくなって寂しそうな指輪が気の毒になってしまいます。
2005年10月22日
フェルトのマスコット
あおいのママが中学3年生の時だったと思う。あの頃、学校でフェルトの手作りマスコットが流行った。私も作り方の載っている本を何冊も買って、一時期よく作った。
初めて作ったフェルトのマスコットは「ピエロ」。たぶん文化祭だったと思うけど、当時手芸クラブに入っていて、その時のバザーに出す予定だった。
初めて作るのに結構難しいのを選んでしまった。だけどデザインがとても気に入ったから。出来上がって家族にも見せた。「ねぇ、見て〜!キレイに出来たよ!」
今思えば、不恰好な「ピエロ」だったと思う。一針一針縫い合わせていく、とても細かいものだったし。でも初めて作ったマスコットだから、出来上がった時とてもうれしかった記憶がある。
二つ下の妹がその「ピエロ」のマスコットをとても気に入ったようで、「お姉ちゃん、これ欲しいよ。ちょうだい!」って言ってきた。
「ダメっ!これはバザーに出すんだから!」って断った。それからもしばらく「ちょうだい」が続いたので、「じゃあ、違うの作ったらあげるよ」って言ったけど、どうしてもこの「ピエロ」を欲しがった。あんまりしつこく言うので、終いにはケンカになったりもした。
その後妹は何も言わなくなったので、諦めたんだろうって思った。
バザーの日、私の初めて作ったあの「ピエロ」はすぐに売れてしまったらしい。(自分で販売はしなかったので、後から友だちに聞いた)うれしかったけど、あんなに妹が欲しがっていたので、ちょっと残念にも思った。残っていたら妹にあげようと決めていたから。
家に帰って自分の部屋で着替えて、またフェルトの「ピエロ」のマスコットを作ろうと思った。妹にそのことを言おうと思って隣の部屋をのぞいて驚いた。
あの「ピエロ」のマスコットが妹の机にぶら下がっていた。
「まさか買ったの?」って聞いた。「うん、そうだよ。一番に並んで買いに行ったんだよ!」って。
「言ってくれればあげたのに。もったいない!」「お姉ちゃんにこれ何度もちょうだいって言ったよ。どうしてもこれが欲しかったから。お姉ちゃんが初めて作ったこのピエロがどうしても欲しかったの!」と満足気だった。
その後、私は色んなマスコットを作った。あの「ピエロ」より上手に出来たマスコットをたくさん作ったけど、妹はもう「ちょうだい」とは言わなかった。
今でも「ピエロ」のマスコットは実家に残っているはず。妹はずうっと飾っていたから。どんなに大ゲンカになっても、一度もこの「ピエロ」を取り外したりすることはなかった。
今度実家に帰った時には、久しぶりにあの「ピエロ」と会ってみたいと思う。
*ちなみに私が作ったマスコットは、ほとんど友だちにあげてしまったので、この「ピエロ」が唯一残っているマスコットです。
*写真はあおいのママの田舎です。海の向こうに見える島は伊豆七島の大島です。ここで小さい頃妹と一緒に遊びました。海岸線にたくさん生えていた松の木に登ったりもしました。(特に妹はおてんばでした)
*「伊豆に帰りました」カテゴリ
http://aoinomama13.seesaa.net/category/642440.html






