ある時、夫と一緒にテレビドラマを見ていて「解剖して死因を・・」というセリフに反応してしまった。ドラマの内容は忘れたが、亡くなった方のご家族に誰かがそう話していた。私はふと思い出して「そういえば家の娘が亡くなった時も医者からそう言われたんだよね」と言ってしまった。言わなきゃいいのに。言って涙があふれて本当にバカだ。
夫は私を必死に慰めながら、でもそのことを思い出せないでいた。最初は私に気を使って思い出せないふりをしているのかと思ったけど、本当に思い出せないようだった。でも私はかすかに覚えている。娘が亡くなってしばらくして「先生からそう言われたんだよ」と聞いた。「詳しい死因を調べるために・・」って。
結局あの時、夫は独断で娘の解剖は断った。誕生死で動揺していた私にはとても相談できるような状況ではなかった。そして何より「こんな小さな子にメスを入れるのはあまりにかわいそうだ」と言っていた。後にそのことを聞いたけど、私も夫の気持ちと同じだった。死因は分からなくてもいい。この子はもう生き返らない。
病院に運ばれてからの5時間、夫は薄暗い食堂で一人で待っていた。気も狂わんばかりの時間、その間、先生から色んな選択を迫られ、何もかも一人で対応していた。後からは何とでも言えるけど、その時はすべて即答しなければならず、ゆっくり考えている時間などはまったくなかった。そして夫は悲しい記憶を徐々に失っていく。今でも娘の詳しい死因は分からないままだが、後悔などしたら夫があまりにかわいそうだ。
9月9日、私たちの亡き娘は5歳になった。歳を重ねるたびに悲しみも苦しみも増していく。「解剖しますか?」あの時あの場所でこう聞かれていたら、私も記憶を失っていたかもしれない。
2008年09月18日
2007年09月12日
喜びの部屋で

*今年はこの向日葵を飾りました。
平成15年9月9日午前4時頃、私は分娩室から車椅子でその部屋に運ばれた。疲れ切っていたのでどんな部屋かわからなかった。ただその時は真っ暗だったように思う。
睡眠薬を飲みベッドに入ったがなかなか眠りにつけない。夫が横で心配している。早く寝なければと気を落ち着かせようとした。
しばらくして夢を見た。小さな子を捜す夢で、歩けない私が泣きながら必死で呼んでいる。子の姿がはっきりしない真っ白な夢。悲しくて寂しくて苦しい夢だった。
目を覚ますと青い空がまぶしく感じた。部屋は一面窓からの陽の光でいっぱいだった。ここはファミリータイプの角部屋でプライバシーも守られる。窓が大きい広くて明るい喜びの部屋だったのだ。
本来ならここは誕生した新しい命をみんなで祝うべき部屋。そこで私はまずわが子の旅路の衣装を作らなければいけないのだ。小さな毛糸のカーディガン、まだまだ暑いこの季節には不似合いなベビー服。でもこれがわが子にできる最初で最後の母親らしいことだった。
別れの日、せめて一口でもいいから母乳を飲ませたいと思った。私は前日に母乳を止める薬をもらっていた。お乳が出てしまってから飲んでも効かない薬だという。赤ちゃんを亡くした母親にとって、その後にお乳が出るのはつらく悲しいこと。でもこの子が生まれた時、口を開けてお乳を欲しがっているように見えた。だから私は薬を飲まない選択をした。
喜びの部屋で必死にお乳をあげようとする母親の私。助産婦さんも一生懸命にマッサージしてくれたが、とうとう母乳は出なかった。泣いて泣いて泣き続けた。息絶えたわが子を抱きしめながら、旅立つこの子に何もしてやれないと泣き続けた。
あれから4年、娘を想い泣かぬ日はない。自分を責め続けながら、これからも毎日を生きていくのだろう。
2007年05月08日
ツバメがやって来た

5月の連休が終わった7日の朝、リビングの窓を開けるとツバメが2羽大空を飛び回っていました。ピィピィキュルル〜ってかわいい声が外に響いています。そして我が家の前の電線に仲良く並んで休みました。よく見ると羽の色も違う、たぶん種類の違うツバメです。ベランダに出たら、私に気がついて飛んで行ってしまいました。
「戻って来ないかなぁ」としばらく待っていると、1羽だけまた電線に来てくれました。ブルーグレイの羽のきれいなツバメちゃん。慌ててデジカメのシャッターを押して何とか写真が撮れました。オスかな?メスかな?本当にかわいい。
「たまごクラブ」という妊婦さん用の雑誌があるのですが、2003年8月号にツバメの記事が掲載されていました。(下記にあります)我が家には文鳥がいまして、ツバメの抱卵や子育て期間は文鳥とほぼ同じで、だいたいの雰囲気はわかります。本当に卵を産むのも抱卵もひなを育てるのも見ましたが、親鳥はものすごくパワーを使います。まさに命懸けです。そして子どもが巣立つともう他人(鳥?)になります。
この雑誌を買った頃、私は妊娠安定期でとても順調でした。付録についていた“やすらぎCD”を毎日聴いて、お腹の赤ちゃんにいっぱい声をかけていました。今思えば本当に至福の時だったんだなぁって涙が出てしまいます。
その頃、近所のお宅の玄関先にツバメが巣を作りました。卵からかえったひなたちが親鳥の運んでくるえさを待っている姿を見て、お腹のわが子にも「かわいいね〜」って話してあげました。娘を出産しそして失って病院から帰宅したら、その巣にもうツバメの親子はいませんでした。私が入院している間に巣立っていったのでしょう。
ツバメの記事を読んで、またそのお宅の巣に戻って来るかもしれないと待っていますが、あの年以来ツバメは帰って来ていません。もしツバメが帰って来たら、我が家にも赤ちゃんが戻ってくるかもと本気で考えたりもしました。その場所を通るたび「ツバメちゃん、早く帰って来て」と、あのかわいいひなの姿を思い出し願っています。
おかしいかもしれないけど、大空を舞うツバメを見ていると、私たちは「あおいちゃんに再会できるのでは」という気がしてしまうのです。

*今朝、電線に来ていたツバメちゃんです。
動物界のたまごママたち 〜ツバメ〜(2003年8月号たまごクラブより)
1年前にペアになった相手を探し出し、再び巣を作るツバメ。オスが違うメスの巣へお邪魔することもありますが、巣作りと子育ては同じペアで仲よく取り組みます。
越冬地から帰ってくると、前年と同じ相手を探して巣作り&子育て
ツバメは人家の軒先に巣を作る。親がえさを持って帰ってくると、待っていたひなたちが一斉に顔を出す。思わず心が温まる光景である。
よく知られているとおり、ツバメは渡り鳥だ。4月ごろになると、越冬地の東南アジアから日本に帰ってくる。
渡るときは夫婦別々に飛んでくるらしく、たいていオスが先に帰ってくる。そしてどのようにしてかわからないが、たいていはちゃんと相手を見つけだし、前年と同じペアで巣作りを始める。
けれど若いツバメも加わっているし、旅先や旅の途中で不幸に遭うものもいるから、前年と同じペアは半分くらいになるようだ。
巣作りは2匹の共同作業。か弱いひなを必死に育てる
巣作りは夫婦の共同作業である。あちこちから泥や枯れ草の茎を集めてきて唾液と混ぜ、家の軒先の状態に合わせてしっかりした泥の巣を作る。丸い産座(卵を産む場所)にニワトリのやわらかい羽毛などを敷いて出来上がり。
巣作りには約1週間ほどかかるが、古い巣を使ったときは3日もあれば十分だ。巣が完成に近づくと、夫婦は交尾を始め、オスは絶えずメスのそばにいて、近づいてくるほかのオスを追い払う。
卵は1日1個ずつ、計5、6個産む。卵を抱くのは主にメスだが、オスも抱卵することがある。抱卵期間は約2週間。その間にオスはしばしばほかの巣へ出かけていき、そこのメスとも交尾する。
ひながかえると夫婦でえさやりである。持ってくるえさはだいたい体長1cm以上ある比較的大きな昆虫で、トンボも多いという。素早く飛びながら、飛んでいる虫をとらえる。
ひなが巣立つまでは20日くらいかかる。ツバメは寒さが苦手らしく、大雨の日や寒い日には、持ってくるえさの数がぐっと減る。あまり雨の日が続くと、ひなが飢え死にすることもあるとか。
1回目のひなが巣立つと、同じペアで2回目の子づくりにとりかかる。そのときまた新居を作ることもある。
ツバメが人家を好むのは、巣やひなに悪さをするスズメが来ないかららしい。人の出入りが多い家や店ほどツバメがよく巣をかけるのはそのためだ。ツバメが来ると店が栄えるといわれるが、実は反対で、店が繁盛しているからツバメが来るのである。
不思議なことにヨーロッパでは、日本で町の人家にしか巣をかけないツバメが田園地帯に住む。そのため、ツバメの学名はヒルンド・ルスティカ(Hirundo rustica・田舎のツバメ)である。そして日本では山にしかいないイワツバメという種類が、ヨーロッパでは都会の人家に巣をかけている。
文/動物行動学者 日敏隆先生
1930年東京に生まれる。動物行動学者。京都大学教授、滋賀県立大学学長などを経て、現在は総合地球環境学研究所所長。『ネコはどうしてわがままか』(法研)、『ミジンコの都合』(晶文社)、『動物の言い分、人間の言い分』(角川書店)など著書多数。
2006年09月13日
お誕生日

あおい、3歳おめでとう。
平成15年9月9日午前2時6分に私たちの娘あおいは生まれた。体重504グラムの小さな小さな赤ちゃん。産声をあげることはなかった。ほんの少し前まで心音は聞こえていたのに。涙が止まらなかった。
4日後、私は誕生日を迎えた。悲しい誕生日だった。
あれから3年。記憶にふたをしようとしている自分がいる。思い出そうとしなければ思い出せなくなっている。すべてが夢の中の出来事だったように感じる。
今日私はまた一つ歳をとった。私だけがどんどん歳をとっていく。
2006年05月09日
あかちゃんごっこ
朝起きたらパジャマからベビー服に着替える
哺乳瓶のミルクをうんと飲ませて
抱っこして背中をポンポンげっぷさせる
ベビーカーでしばらくお散歩する
リビングのソファーでお座りして
ママと一緒にテレビを見ようね
おやつは何がいいかしら
ママの好きなお菓子を食べよう
歌を歌いながらちょっとお昼寝
そして夜になったら親子で寝んね
また朝が来て昼が来て夜が来て
毎日そうして過ごしていく
何年経ってもあおいちゃんは
ずっとあかちゃんのまま
お人形はちっとも大きくならない
いくつになっても私たちが年をとるだけ
悲しみだけが大きくなっていく
哺乳瓶のミルクをうんと飲ませて
抱っこして背中をポンポンげっぷさせる
ベビーカーでしばらくお散歩する
リビングのソファーでお座りして
ママと一緒にテレビを見ようね
おやつは何がいいかしら
ママの好きなお菓子を食べよう
歌を歌いながらちょっとお昼寝
そして夜になったら親子で寝んね
また朝が来て昼が来て夜が来て
毎日そうして過ごしていく
何年経ってもあおいちゃんは
ずっとあかちゃんのまま
お人形はちっとも大きくならない
いくつになっても私たちが年をとるだけ
悲しみだけが大きくなっていく
2006年03月04日
2005年09月11日
黄色いカーディガン
私は妊娠がわかった時から、わが子に着せたくて「黄色いカーディガン」を編み始めた。出産予定日は平成16年1月1日。冬に生まれるわが子のために編もうと決めた。
記念すべき退院する際に着るベビードレス、帽子、靴下、手袋、おくるみを編む前に、久しぶりに編み物をするのでならす意味で、12ヶ月頃まで着れそうなカーディガンを編むことにした。
その時点ではまだ男の子か女の子かわからなかったので、とりあえずどちらでも似合うように柔らかな色の黄色の毛糸にした。
しばらくして「お腹の子は男の子です」と先生に言われ、「そうなのかなぁ・・・」と納得できなかったんだけど、「まぁ、男の子でも黄色は似合うから」とパパにも応援されて、何とか前身ごろ、後ろ身ごろ、袖などのパーツを編み終えた。
後はそれぞれのパーツを縫い合わせて、そして仕上げにボタン付けをすればできあがる状態になった。
このカーディガンを編むのは私にとって本当に大変だった。編み物が特に得意だというわけでもないし、久しぶりに編むというのに、難しい模様編みだったから。何度間違えて編み直したことだろう。本とにらめっこしながら、「もうやだ〜!!」って何度言ったことだろう。
つわりで吐き気が続いたし、微熱や頭痛で気分がすぐれなくてつらかったし、夜はなかなか眠れなかったし。私は大柄なので「妊娠中は体重を増やしてはいけない、むしろ減らすように」と先生や栄養士さんに言われ、元の体重より1.7キロ増えた時は怒られてしまった。妊娠は病気じゃないって言うけど、私にはそう思えないほど苦しく感じた。
そんな中、後は仕上げだけという状態になったので、ものすごくうれしかった。パーツを合わせてみると「赤ちゃんて何て小さいんだろう、こんなにかわいいんだね」って、パパと一緒にここまで仕上がったことを喜んだ。
遅くに生まれてくるわが子。パパもママも長男長女で、父も母も25〜6歳の時の若い時の子どもだった。わが子にとって私たちは決して若くなく、この子はお友だちの若いお母さんを見てうらやましく感じるかもしれない。本当にごめんね、あと5歳若ければねぇ・・・、そんなことをずっと考えていた。
だからせめてできるだけ手作りをしようと思った。愛情をたくさん込めて色んなものを作ろうと思った。
平成15年9月9日、生まれたわが子は男の子ではなく女の子だった。そして誕生死。誕生日が命日となってしまった。
2日後の11日に退院することになった。体の悪いところはこれから外来でということになった。婦長さんが「ここに入院しているのはつらいだろうから」とおっしゃって、早めに退院させてくれた。
退院する日がわが子とお別れの日になった。婦長さんのはからいで、かたちだけでも授乳することもできた。私とわが子をつないでいたへその緒もくださった。そして業者の方に頼んで小さな棺を用意してもらった。
50センチにも満たない小さな棺に、パパが買ってきてくれたかわいい御花を散りばめた。戌の日に水天宮で買ったお守りを持たせた。そしてわが子には、あの黄色いカーディガンをかけてあげた。
私が初めてわが子のために編んだ黄色のベビー服。前日にそれぞれのパーツを編み合わせて仕上げた。それを旅路の衣装にした。よく晴れた青空がまぶしい、とてもとても暑い日だった。冷暗所から来たわが子は汗をかいていた。「こんな暑い日に毛糸のカーディガンでごめんね」と謝った。
あんなに小さいと思った黄色いカーディガンは、わが子にはとても大きかった。でも不思議とよく似合っていた。
業者の方、婦長さん、看護師さん、助産師さん、パパとママの6人で最後のお別れをした。看護師さんが「ママのカーディガンがよく似合いますね」と言ってくれた。助産師さんも一緒に泣いてくれた。
お世話になった病院の皆さんにごあいさつをして退院した。火葬場までパパがわが子の御棺を抱いて連れて行った。火葬する際に、職員の方から「お子さんが小さいので、もしかしたらお骨が残らないかもしれません」と言われ悲しかった。
「ずっと愛し続けるよ!!」パパが大声で叫んでいた。私はずっと「ごめんね、ごめんね」と謝っていた。
あおいはお骨になった。マッチ棒より細いお骨になった。この世に生まれた証をちゃんと残してくれてありがとうね、あおいちゃん。
小さな骨壷のわが子を抱いて帰路に向った。電車で下校途中の中高生が大勢乗ってきた。制服を着た女の子が楽しそうに笑っていた。この子も大きくなったら、こんなふうに楽しそうに笑うのだろうか。涙が止まらなかった。
あおいは今もわが家にいる。ずっと赤ちゃんのままで。あの黄色いカーディガンが似合う小さな赤ちゃんのままで。
*向こうの病棟 《病院にて》
http://aoinomama13.seesaa.net/article/6708580.html
*「あおいのページ」カテゴリ
http://aoinomama13.seesaa.net/category/333731.html
記念すべき退院する際に着るベビードレス、帽子、靴下、手袋、おくるみを編む前に、久しぶりに編み物をするのでならす意味で、12ヶ月頃まで着れそうなカーディガンを編むことにした。
その時点ではまだ男の子か女の子かわからなかったので、とりあえずどちらでも似合うように柔らかな色の黄色の毛糸にした。
しばらくして「お腹の子は男の子です」と先生に言われ、「そうなのかなぁ・・・」と納得できなかったんだけど、「まぁ、男の子でも黄色は似合うから」とパパにも応援されて、何とか前身ごろ、後ろ身ごろ、袖などのパーツを編み終えた。
後はそれぞれのパーツを縫い合わせて、そして仕上げにボタン付けをすればできあがる状態になった。
このカーディガンを編むのは私にとって本当に大変だった。編み物が特に得意だというわけでもないし、久しぶりに編むというのに、難しい模様編みだったから。何度間違えて編み直したことだろう。本とにらめっこしながら、「もうやだ〜!!」って何度言ったことだろう。
つわりで吐き気が続いたし、微熱や頭痛で気分がすぐれなくてつらかったし、夜はなかなか眠れなかったし。私は大柄なので「妊娠中は体重を増やしてはいけない、むしろ減らすように」と先生や栄養士さんに言われ、元の体重より1.7キロ増えた時は怒られてしまった。妊娠は病気じゃないって言うけど、私にはそう思えないほど苦しく感じた。
そんな中、後は仕上げだけという状態になったので、ものすごくうれしかった。パーツを合わせてみると「赤ちゃんて何て小さいんだろう、こんなにかわいいんだね」って、パパと一緒にここまで仕上がったことを喜んだ。
遅くに生まれてくるわが子。パパもママも長男長女で、父も母も25〜6歳の時の若い時の子どもだった。わが子にとって私たちは決して若くなく、この子はお友だちの若いお母さんを見てうらやましく感じるかもしれない。本当にごめんね、あと5歳若ければねぇ・・・、そんなことをずっと考えていた。
だからせめてできるだけ手作りをしようと思った。愛情をたくさん込めて色んなものを作ろうと思った。
平成15年9月9日、生まれたわが子は男の子ではなく女の子だった。そして誕生死。誕生日が命日となってしまった。
2日後の11日に退院することになった。体の悪いところはこれから外来でということになった。婦長さんが「ここに入院しているのはつらいだろうから」とおっしゃって、早めに退院させてくれた。
退院する日がわが子とお別れの日になった。婦長さんのはからいで、かたちだけでも授乳することもできた。私とわが子をつないでいたへその緒もくださった。そして業者の方に頼んで小さな棺を用意してもらった。
50センチにも満たない小さな棺に、パパが買ってきてくれたかわいい御花を散りばめた。戌の日に水天宮で買ったお守りを持たせた。そしてわが子には、あの黄色いカーディガンをかけてあげた。
私が初めてわが子のために編んだ黄色のベビー服。前日にそれぞれのパーツを編み合わせて仕上げた。それを旅路の衣装にした。よく晴れた青空がまぶしい、とてもとても暑い日だった。冷暗所から来たわが子は汗をかいていた。「こんな暑い日に毛糸のカーディガンでごめんね」と謝った。
あんなに小さいと思った黄色いカーディガンは、わが子にはとても大きかった。でも不思議とよく似合っていた。
業者の方、婦長さん、看護師さん、助産師さん、パパとママの6人で最後のお別れをした。看護師さんが「ママのカーディガンがよく似合いますね」と言ってくれた。助産師さんも一緒に泣いてくれた。
お世話になった病院の皆さんにごあいさつをして退院した。火葬場までパパがわが子の御棺を抱いて連れて行った。火葬する際に、職員の方から「お子さんが小さいので、もしかしたらお骨が残らないかもしれません」と言われ悲しかった。
「ずっと愛し続けるよ!!」パパが大声で叫んでいた。私はずっと「ごめんね、ごめんね」と謝っていた。
あおいはお骨になった。マッチ棒より細いお骨になった。この世に生まれた証をちゃんと残してくれてありがとうね、あおいちゃん。
小さな骨壷のわが子を抱いて帰路に向った。電車で下校途中の中高生が大勢乗ってきた。制服を着た女の子が楽しそうに笑っていた。この子も大きくなったら、こんなふうに楽しそうに笑うのだろうか。涙が止まらなかった。
あおいは今もわが家にいる。ずっと赤ちゃんのままで。あの黄色いカーディガンが似合う小さな赤ちゃんのままで。
*向こうの病棟 《病院にて》
http://aoinomama13.seesaa.net/article/6708580.html
*「あおいのページ」カテゴリ
http://aoinomama13.seesaa.net/category/333731.html




