2007年10月28日

10/8 NHKスペシャル “北朝鮮帰国船” 〜知られざる半世紀の記録〜(3)

*10/8放送の特集を文字化テキストにしました。(番組は約55分間)3回に分けて掲載しております。今回が最終回です。

*10/8 NHKスペシャル “北朝鮮帰国船”
 〜知られざる半世紀の記録〜(2)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/62648488.html

続き

【ナレーター】
 多くの帰国者を北朝鮮へと運んだ帰国船。しかし帰国船は別の目的にも使われていました。日本に残り北朝鮮に渡る肉親を見送った人々、その日本の家族のもとを北朝鮮の工作員が訪れていたのです。工作員は家族に協力を迫るため、北朝鮮で生活する帰国者の写真を持ち込みました。写真には帰国者の生活を詳しく記した手紙が添えられていました。

「あなたの愛する娘と祖母は、祖国の懐に抱かれ元気に暮らしています。孫たちも見違えるように大きく育ちました。あなたが我々に協力することは、祖国統一を達成する力となります。積極的な支援を確信しています。」

 写真を見せられた家族は「協力を拒めなかった」と言います。

 日本とアメリカは1960年代始めから、帰国船を使った北朝鮮の工作活動に注目していました。アメリカでは国務長官に情報局から報告が上げられていました。

「帰国船が日本の港に寄港することで、日本にいる工作員と平壌との連絡が容易になった。」(日米秘密文書)

 一方、日本の関係当局の幹部も会議で次のように発言しています。

「帰還ルートは在日工作員に対する“報告ルート”となっている。」

 帰国船の船内で船員が手渡した菓子折の中に、工作機関からの指令書を忍び込ませていた例もありました。実際に菓子折に入れられていた指令書です。特殊なインクを使って書かれていて、そのままでは読めません。薬品を上から塗ると文字が浮かび上がります。

「心血を注いで実行せよ」

 日本で出来るだけ多くの協力者を獲得するよう指示が出されていました。

 1970年代半ば、現在の金正日総書記が後継者に決定したと言われています。その後、帰国船には“指導船長”と呼ばれる北朝鮮の幹部が密かに乗船。新潟に停泊中、「在日の商工業者を呼び巨額の献金を求めた」と言います。当時の状況を知る人物の証言を得ることができました。

【在日朝鮮人元活動家】
 「向こう(北朝鮮)に家族がいる人間、そういう商工人を船に呼んで、直接労働党中央の人間が献金を要求する。例えば『工場を建てるからよこせ』とか、例えば『病院を建てるからよこせ』とか、俗に言う“一本釣り”というかつお釣りのようなものです。一本1億なのか2億なのか3億なのかは別にして、日本で欲しい物が何でもあの船を通して入って来る。“ヒト”・“モノ”・“カネ”、これを大量に持って行ったり来たりするパイプだったということですね。そういうことで僕は(北朝鮮の)生命線と言っているわけです。」

【ナレーター】
 帰国船が工作活動に使われたことを把握していた日本とアメリカ。しかし有効な対策は取られませんでした。日米当局は、日朝間を往来する船は北の軍事開発に必要な物資も運んだ、と見ています。

 軍事物資を調達する機関で活動していた人物です。通常、日本から香港やシンガポールなどを経由して北朝鮮に持ち込みましたが、「緊急の時は祖国訪問の船を使った」と言います。「1980年代後半、平壌の防空システムに必要な物資を調達するよう指示された」と言います。レーダーで侵入する戦闘機を捉え、大型のモニターに映し出すシステムです。

【元北朝鮮軍需物資担当者】
 「(絵で説明する)敵機が出現したと同時に、これは白黒で点滅します。点滅しながらある方向に動いていきます。」

【ナレーター】
 システムの中枢には最新のコンピューターが使われました。

【元北朝鮮軍需物資担当者】
 「このシステムの中で各処理をするコンピューター15台は日本から入荷しました。」

【ナレーター】
 男によると、「コンピューターを持ち込むのに利用したのが祖国訪問の船だった」と言います。当時、軍事転用が可能な高度な電子機器を共産圏に輸出することは禁じられていました。しかし男は「乗客の荷物に紛れ込ませた」と言います。

【元北朝鮮軍需物資担当者】
 「『ちょっと荷物があるんですけど、別個にこれを送ろうと思うと手続きが難しいので、あなたの手荷物の中に一つ入れてください』と。『それ何なの?』と『テレビですよ。一個あたりお礼します』と、そういうふうに言えば同じ同同士、『あっ、そうなの』。端から見ると工作めいたことじゃなく、ごく自然な流れとして持って行った。税関でもいちいち個人の荷物のリストを全部詳しく調べるのは無理があった。そういうのを上手く利用したっていうのがありますけどね。」

【ナレーター】
 軍がすべてに優先する国・北朝鮮。その軍事技術に日本からの物資が使われたと見られています。

 9万3千人余りの人々が北朝鮮へと渡った帰国事業は1984年に終了しました。祖国訪問の船には万景峰号(マンビョンボン号)が就航し、去年、活動を停止するまで運行を続けました。

 祖国の現状を目の当たりにし、悩み続けたパク・ヨンゴンさん。北朝鮮の幹部から国家理念のチュチェ思想を研究するよう命じられ、指示に従いました。やがて80年代に入って、体制に対する疑問を抑えられなくなったパクさんをなだめたのは、チュチェ思想の権威、ファン・ジャンヨプ氏(朝鮮労働党元書記)でした。後に亡命したファン氏も当時から体制に疑問を抱いていました。

 ある時、平壌で二人は盗聴を恐れ、歩きながら話をしました。パクさんは問いました。「矛盾を感じるなら何故戦わないのですか?」ファン氏は次のように諭したと言います。

【パク・ヨンゴンさん】(元朝鮮大学副学長)
 「『我々は犬死になる。犬死したってどうしようもないじゃないか。それから家族・親類に及ぶ弾圧はこれは悲惨なものだ』と。『だから今の体制に矛盾を感じながらも、どう自分たちの研究をこの真理を追究していくかこれを模索しやっているんだ』と。『だから先生もそのことを念頭において、万歳を唱えなきゃならない時は万歳を唱え、拍手をしなきゃならない時は拍手をし・・』・・・。」

【ナレーター】
 パクさんは体制に対する疑問を隠しながら時にはそれを賛美し、30年近くチュチェ思想の研究を続けました。しかし3年前、自らの思いを率直に記した手記を執筆(「人間中心の人生観」)、自分の行いを「恥じるばかりである」と記しました。パクさんは朝鮮総連の役職から離れました。

【パク・ヨンゴンさん】(元朝鮮大学副学長)
 「ただ誤った体制であるということが明らかになった時点でも・・・、必ずしも私は勇敢に立ち上がることができませんでした。だけども、最後の人生を送るには、反省と同時につまり正しく自分の一生をまとめたい、こう思っています・・・。」

【ナレーター】
 北朝鮮から逃れて来たキム・チュンガンさん。日本で再び生活を始めようとしているキムさんが「恩返しをしたい」と心に決めていた人がいます。キムさんの祖母・トッキさんです。今年98歳になるトッキさんは高齢のため記憶がほとんど失われました。キムさんは「日本に戻ったらトッキさんの世話をしたい」と考えていました。

 この日、老人ホームに入所しているトッキさんを知り合いの人が近くまで連れて来てくれました。かつて、命を支えてくれた祖母との再会です。

【キム・チュンガンさん】(脱北帰国者)
 「お祖母さん・・・」

【キム・トッキさん】(キム・チュンガンさんの祖母)
 「何でこんなに変わったの?」

【キム・チュンガンさん】(脱北帰国者)
 「分かってるかい?」

【キム・トッキさん】(キム・チュンガンさんの祖母)
 「顔も変わったね。昔はかわいかった・・・。」

【キム・チュンガンさん】(脱北帰国者)
 「寒いやろ?」

【キム・トッキさん】(キム・チュンガンさんの祖母)
 「お父さんは死んだよな、お母さんも死んだのか?」

【ナレーター】
 失われていたはずのトッキさんの記憶がよみがえりました。

【キム・トッキさん】(キム・チュンガンさんの祖母)
 「昔の面影が残っているね。」(うれしそうに、そして泣いていました)

【キム・チュンガンさん】(脱北帰国者)
 「お祖母さんに会うため帰って来たよ。いつもお祖母さんのこと、考えていたよ。」

【ナレーター】
 50年近くに渡る日々は二人にとって苦難に満ちたものでした。

【キム・チュンガンさん】(脱北帰国者)
 「本当に長生きしてくれてうれしい・・・」

【ナレーター】
 遠い海峡を隔て引き裂かれていた人々。今も多くの家族が日本と北朝鮮で離れ離れのまま暮らしています。

 日本と北朝鮮を結び続けた船・北朝鮮帰国船。人々の様々な思いを運ぶと共に北の体制を支え続けました。日本海に深く刻まれた航跡は人々の心から消えることはありません。

*日本国内における脱北者支援の現状と問題点
http://aoinomama13.seesaa.net/article/39456814.html

終わり

(ディレクター 川口潤さん)
posted by あおいのママ at 04:13| 千葉 曇り | TrackBack(0) | 報道番組テキスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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