【めぐみ 13年間のアルバム より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)
*めぐみ 13年間のアルバム(7)1977年という年
http://aoinomama13.seesaa.net/article/59024454.html
続き
第八回 1本のラケット
1本のラケットが、25年の時を隔て、海を越え、突然現れた。キム・ヘギョンさんが持参したのだ。「母親の思い出の品」として。
午後6時25分頃。めぐみはバドミントンの練習を終えて、寄居中学の正門を出た。部活の仲間と3人で。1977年11月15日、火曜日。いつものようにラケットを入れた赤いスポーツバッグと学生カバンを手に。
帰宅の道は、日本海へと向う直線の道路だ。途中で1人が右に折れた。次の交差点で、2人めがバイバイと言って左に曲がる。6時35分頃だった。家までは、あと3〜4分。
だが、めぐみは遂に帰ってはこなかった。
中学生になっためぐみは、クラブ活動として選んだバドミントン部で一生懸命、練習に取り組んでいた。当時、寄居中学は強豪として知られていた。失踪2日前の11月13日、めぐみは新潟市内の中学校新人戦に出場。ダブルスで5位に終わったが、市の強化選手の1人に選ばれた。
身長はクラスで高いほうから3番目。153センチの母・早紀江を既に1センチ上回っていた。その体格が見込まれたのか、思いがけず強化選手に選ばれて、めぐみ自身はそのことを少し重荷に感じていた。勉強の成績は学年でも上位だったが、部活に時間を割くなかで、2学期の中間テストは順位をやや下げていた。
行方不明になったとき、早紀江の頭に真先に浮かんだのは、ここ2〜3日の、めぐみのそんな“迷い”だった。家出か?それとも思い詰めた果てに・・・。北朝鮮による拉致だなんて、想像もつかない時代だ。

*昭和52年、寄居中学の体育館にて(後列右から4番目)。
前頁の写真は、失踪後に顧問の先生がくれたもの。滋も早紀江も初めて見る写真だった。ピンクのラケットを手にしためぐみ(後列右から4番目)は、体を少し横に向けている。
その姿を目にしたとき、早紀江はとっさに思った。「ああ、めぐみちゃんは、私の言葉を覚えていたんだ」と。成長期で少し太り始めたことを気にしていためぐみに、早紀江はこう教えたことがあったからだ。
「写真を撮るときにはね、ちょっと体を斜めにするといいのよ。そうすれば少しスマートに見えるでしょ」
今はいない娘とのやりとりが、まざまざと甦ってきた。
めぐみが中学を卒業するはずの時期、早紀江は1人でよく浜辺に立った。波間に浮かぶ遠いブイ。その赤い色を、いつまでも見つめ続けた日もある。あの日、めぐみが持って登校した、赤いスポーツバッグに思えてしかたなかったからだ。
やがて寄居中学に入学した弟の拓也は、姉と同じバドミントン部を選び、それを大学まで続けた。
その頃、北朝鮮では、楽器を習うように言われためぐみが、バイオリンを選んでいた。蓮池夫妻らの証言によれば、その理由をめぐみは、こう語ったという。
「弟(小学生の拓也)が習っていたから」と。
―そして、あの、2002年9月17日。日本中に衝撃を与えた、小泉初訪朝の当日。
1本のラケットが、25年の時を隔て、海を越え、突然現れた。平壌のホテル。梅本和義公使と面会したキム・ヘギョンさんが持参したのだ。「母の思い出の品」として。
我々は、必ず、取り戻さなければならない。そのラケットの真の持ち主を。海のこちら側に。
*第九回 失踪直前“最後の一枚” に続く
*めぐみ 13年間のアルバム(9)失踪直前“最後の一枚”
http://aoinomama13.seesaa.net/article/59773410.html
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