
*写真は2005年7月に小山さんからいただいた本です。
*漫画アクション2005年1月21日号〜7月19日号で「めぐみ」(作画/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。(全10回)
【めぐみ 13年間のアルバム より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)
第一回 忘れられない温もり
愛娘、めぐみと過ごす時間を他の何よりも大切にしていた父・滋。赤子のめぐみを抱き寄せた時の頬の温もりを今でもまざまざと思い出すことができる。
めぐみが生まれた日のことを、父親である横田滋は今も鮮明に覚えている。1964年、東京オリンピックが開幕する直前の10月5日のことだ。
その日の朝、「お腹が痛い」という妻・早紀江を、タクシーで自宅から名古屋・聖霊病院まで送った滋は、「すぐにも生まれそうだ」という医師の診断を聞いて、あわてて勤務先(日銀)へと向かった。職場に置いてあった愛用のカメラを取りに行くためだ。休暇届を出し、すぐに病院に戻った滋は、夕方になってようやく産声を上げた赤ん坊を、そのカメラで撮りつづけた。看護婦さんに体を洗われたり、身長や体重を測られているわが子のすぐ横で、シャッターを押しつづけた。
新婚の滋と早紀江にとって、初めての赤ん坊。「女の子が欲しい」と望んでいた滋には、何より嬉しい授かり物だった。
その日から5カ月目。初めての桃の節句を迎えた横田家では、ささやかな祝いの記念に1枚の写真を撮っている。滋の当時の転勤先であり、結婚生活をスタートさせ、娘めぐみの誕生の地ともなった名古屋。その自宅(日銀の社宅=行舎)の一室での、輝くような幸せのひとときだ。

*昭和40年3月、名古屋の行舎にて滋と(撮影・早紀江)
殺風景な部屋を雛祭りらしくしようと、壁には、早紀江が子供時代に父親から贈られたという掛け軸を飾った。結婚したときに友人や知人がプレゼントしてくれた人形も持ち出してきて、並べてみた。
カメラが趣味で、いつもはシャッターを押す側の滋が、「僕とめぐみが一緒のところを・・・」と、早紀江にカメラを渡して写してもらった1枚。頬ずりするようにして抱いためぐみのズシリとした重さとぬくもりは、いまも腕の中に記憶として残っている。
この「父と娘の写真」からほぼ1年後、1966年2月に、横田家の親子3人は転勤で東京(大手町)に移住する。だから、2度目の桃の節句は、そこで迎えた。間もなく、双子の弟たち(拓也と哲也)も生まれて5人家族になった。
その後、広島への転勤時代を経て、一家は新潟へ。新たに住むことになったのは、家を出て数分も歩くと、突如として広大な日本海が現れる新潟市水道町という町だった。
引っ越してきてからまだ1年ちょっとのその町で、中学1年生だっためぐみは、あの日、忽然と姿を消してしまった。1977年11月15日。下校途中の突然の失踪だった。理由も全く分からないままに(北朝鮮による拉致だと分かったのは失踪から約20年もあとのことだ)。
「めぐみは体重があって重い赤ん坊だから、母親のお前より僕が・・・」と、喜んで、だっこ係を引き受けていた父・滋。双子の弟が生まれてからも、幼い2人の世話で早紀江が忙しいからと、夜中のトイレの世話から映画鑑賞や遊園地の乗り物の付き添いまで、進んでめぐみの面倒を見つづけていた父・滋。
その滋の腕の中から、音もなく、するりと抜け落ちるように、めぐみの姿は突然かき消えてしまった。
初めて桃の節句を祝った日から40年。いま滋は、静かに、だが、固く信じている。いつかまた、その日が必ずやって来ると。この写真のように、再び自分の腕の中に思い切り娘を抱き寄せることのできる、その日が―。
*第二回 「御所ちゃん、来たね」 に続く
*めぐみ 13年間のアルバム(2)「御所ちゃん、来たね」
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58557694.html
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