【母が拉致された時 僕はまだ1歳だった より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)
*八重子と耕一郎 2つのアルバム(4)
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続き
第5回 大人になるまで守りきらなければ
3人の子供の父親として、飯塚繁雄は懸命に働いていた。妻の栄子は末っ子が小学生になったのをキッカケに、昼間のパートに出た。少しでも家計を助けるためだ。
そんな飯塚家に、突然、赤ん坊の耕一郎が加わった。1978年夏。忽然と姿を消した八重子が残していった子供だ。栄子は始めたばかりのパートを辞めて、もう一度、子育てにイチから取り組むことにした。新築したばかりの家のローンもあり、繁雄の肩には、生活の重さがいっそうのしかかってきた。

*繁雄のヒザに耕一郎 飯塚家の正月の情景
写真(上)は、耕一郎が3歳になった頃の飯塚家の正月の光景だ。繁雄のヒザの上で微笑む耕一郎と、3人の姉兄たち(男性は繁雄の同僚)。「この子はお父さんの妹の子だからね。このことは大きくなるまで絶対内緒だよ。今日からは、うちの子だからね」
上の子たちには、耕一郎を引き取った日、1度だけ、こう説明した。以後、3人は本当の姉弟・兄弟以上に耕一郎と仲良く育ってくれた。
この時期、繁雄は10年以上も1着の背広で通している。写真の中で着ているカーディガンも、ずいぶん長い間、着続けた。だが、一番苦労したのは、何といっても妻の栄子だ。背中に幼児を背負い、自転車の前や後ろに上の子供たちを乗せて駆けずり回る日々。苦労続きだったが、何があったかいちいち覚えていられないほど無我夢中の毎日だった。
そんな生活でも、繁雄は、できるかぎり家族揃って旅をするよう心がけた。ほとんどは近場へのドライブだったが。写真(下)は、埼玉県内の長瀞を訪れたときのもの。会社の保養施設の一室だ。1985年4月。「耕ちゃん」はスクスク育ち、8歳になっていた。

*旅行先室内 繁雄・栄子夫婦が頬を寄せ耕一郎と3人で
当時通っていたのは、上尾市立平方小学校。4、5年の時期には週3回、近所のソロバン塾に通い1級の資格も取った。中学ではテニス部。よく勉強し、テストで何度も満点を取ってきては両親を喜ばせた。
その中学時代、耕一郎が14歳になったばかりの春。日本の警察が「李恩恵は13年前に都内池袋から失踪した田口八重子さんと判明した」と公式に発表した。報道は匿名扱いだったが、飯塚一族に対するマスコミの取材攻勢が始まる。李恩恵の正体を探る興味本位な記事と、八重子の高校時代の顔写真が雑誌に氾濫した。
それが自分の実の母親のことだなんて、耕一郎は露ほども知らない。繁雄の「耕一郎を守る闘い」には、今や新たな要素が加わった。単に「実子ではない」という秘密が他人の口から本人の耳にフイに入るのを防ぐだけでなく、事件の女・李恩恵の息子だという世間の好奇の目から、この子を隠しとおすという闘いだ。
繁雄は世間に対して“李恩恵の兄”であることをいっさい隠し、深く沈黙した。耕一郎は、いま一番難しい年頃だ。真実を冷静に受けとめられる年齢になるまで、なんとしても耕一郎を守りきらなければ。20歳になったら、自分の口からきちんと全てを話そう。何もかも。そう心に刻み続けながら年月を重ねた。
だが、耕一郎が20歳の誕生日を迎えた日、何ひとつ知らず平穏に暮らす息子の顔を見ると、繁雄はどうしても言いだすことができなかった。告白はズルズルと引き延ばされた。
*「第6回 母子で写った唯一の1枚」最終回に続く
*八重子と耕一郎 2つのアルバム(6)最終回
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