【母が拉致された時 僕はまだ1歳だった より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)
*八重子と耕一郎 2つのアルバム(2)
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続き
第3回 2人の「八重子」
地元・川口(埼玉)の市立中学で八重子は、長身だったこともあってバレーボール部に所属していた。次いで、市立高校の商業科に進学。1971(昭和46)年のことだ。
写真(右)は高校2年のときの八重子。3番目の兄・勝の結婚式に出席したときのものだ。親族の集合写真の中で、背伸びしたい年頃の八重子は、化粧をし、眉も剃っている。

*結婚式の集合写真の八重子さん
時代は「昭和元禄」と呼ばれ好況に沸く隆盛期。そんな社会の中で、高校生の八重子も喫茶店でバイトするなど青春を謳歌しだした。やがて、せっかく進んだ高校を2年の終わりに退学し、本格的に働き始める。
この写真の時から15年後に起きた大韓航空機爆破テロ。事件後、世間の人々には、高校時代のこの顔が、「李恩恵=田口八重子」として広まった。マスコミに流出した写真のうち、行方不明時の年齢に最も近いものだったからだ。
日本の警察が李恩恵の身元を最終的に確認するため、韓国で金賢姫に見せたのもこの写真だった。金賢姫は15人の女性の写真を1枚ずつ見せられたが、この写真が現れた瞬間、迷わず手に取り、「李恩恵先生」と懐かしそうに呼びかけたという。
しかし、兄の飯塚繁雄にとって、この写真は「あまり八重子らしくない」ものだった。細い眉。睨んだような顔。繁雄がよく知っているふだんの八重子とは違っていた。
繁雄は、八重子の失踪後しばらくしてから、1枚の写真を手帳にはさんで持ち歩くようになった。繁雄にとっては、それが「八重子らしい八重子」だった。失踪直前、22歳のときの写真だ。(左)

*22歳の八重子さん。
就職活動用に撮った写真だった。女手ひとつで幼い2人の子供を育てることを決意して、履歴書に貼るためにカメラの前に座った八重子。
高校をやめたあと、20歳になるかならないかで結婚した八重子は、間もなく長女を出産。翌々年には長男・耕一郎も生まれた。だが、家庭をかえりみなくなった若い夫と別れる決心をして、自力で生きていく覚悟を固める。親代わりの繁雄夫婦にもそう伝えていた。負けず嫌いな八重子らしい選択だった。
そんな時期に撮影したまま、八重子の姉の家に残されていた顔写真。その存在を知って、繁雄は、それを肌身離さず持ち歩くようになったのだ。原因不明のまま突然消えてしまった妹。探すための手がかりを、いつでも身につけていたかった。
だが、91年に「李恩恵=田口八重子」と発表された後、マスコミの容赦ない取材攻勢を受けるようになってからは、この写真を世間の目から隠し通した。この写真こそ、繁雄にとって妹・八重子であり、世間の好奇の目から守り切らなければならない耕一郎の、母・八重子だった。
八重子の長男・耕一郎を1歳で引き取り、自分の子供として育てた繁雄が、21歳になった耕一郎に、近所の寿司屋で全ての真実を告げた日、「耕一郎、これがお前の本当のお母さんだよ」と見せたのも、繁雄が常に手帳に入れていた、この22歳の八重子だった。初めて見る母。記憶のかけらさえない母。耕一郎はじっと見つめているだけだった。
拉致直前、日本での最後の1枚。繁雄は今も変わらずこの写真を身につけて、救出を訴え続けている。
*「第4回 3人の名を大きく書き込んだ次男としてのアルバム」に続く
*八重子と耕一郎 2つのアルバム(4)
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