*昨年末、ジャーナリスト・萩原遼さんより「正論2006年10月号」の記事のコピーをいただきました。それをテキストにしてご紹介致します。記事は8ページ(P138〜145)でした。写真は3/31藤沢市民集会での萩原さんです。(あおいのママの撮影)
萩原遼氏
一九三七(昭和十二)年、高知県生まれ。大阪外大朝鮮語科卒。六九年、赤旗記者となり、七二年、同紙平壌特派員。平成元年にフリーとなり、米ワシントンに三年近く滞在して、国立公文書館に秘蔵される米軍奪取の北朝鮮文書百六十万ページを読破、それをもとに「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」を著した。「北朝鮮に消えた友と私の物語」で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。昨年十月から韓国に滞在中。
【正論2006年10月号より】ジャーナリスト・萩原遼
4月末、スウェーデンのストックホルム大学にあるアジア太平洋研究所から私のパソコンに1通のメールが入りました。その研究所の所長でストックホルム大学の教授池上雅子さんからのメールです。招聘教授として1ヶ月講義をお願いしたいというものでした。往復の飛行機代、宿舎、研究室、日当を大学がすべて負担するという条件でした。私の性格では教師はつとまらないと若いころから避けてきましたが、そのとき心が動いたのは私の本『金正日 隠された戦争』を高く評価してくださっていることでした。
アメリカで4年もかけて書いた本ですが、予想外に売れなく経済的にも大きな打撃をうけ、一時は引退も考えました。しかしよく考えると、売れないのにはある種の圧力が働いていることに気がつきました。それならばむしろ外国で広め、読んでもらおうと思い直して英語版を作っている最中でした。その矢先にストックホルムで評価されたことに意を強くして応諾の返事を送りました。
池上さんから、招請をお受けくださりとてもうれしいとの返事とともに、『金正日 隠された戦争』についてこんなふうに書かれていました。
「昨年東西センターのフェローシップでハワイに滞在した際、プロジェクトリーダーの金忠男氏に萩原先生の『金正日 隠された戦争』と『朝鮮戦争』を紹介したところ、顔色を変えて、数ヶ所の詳しい翻訳を頼まれました。氏の昨年秋出版の本には萩原先生の本も引用されています。また、金日成の『不自然死』にいたる経過詳細部分を頼まれて翻訳したところ、顔が凍ったようでした。金氏はかつて全斗煥、盧泰愚、金泳三の3人の大統領のアドバイザーとして青瓦台に勤めただけに、当時青瓦台で把握していた情報とも合致するのだなと直感した次第です」
私の本『金正日 隠された戦争』の核心部分は、1990年代初頭の社会主義圏崩壊のさなか、北朝鮮の崩壊を食い止めようとして金日成と金正日が生き残りのために激しい政策的対立を引き起こした結果金正日が金日成を謀殺した、というものです。池上先生のメールによって、元の韓国大統領補佐官から金日成謀殺を肯定されたと私は思い、いっそう意を強くし、ストックホルム行きの準備に入りました。
準備とは、『金正日 隠された戦争』の英語版の印刷製本です。昨年10月から滞在していた韓国を離れ日本に一時帰国中でしたので、きゅうきょソウルに戻りました。
●ソウルでの悪戦苦闘
ストックホルムでの講演には『金正日 隠された戦争』の英語版が絶対必要です。すでに英訳は終わっていましたので印刷製本を急がなければならない。日本よりも安いといわれる韓国です。5月10日韓国に戻りました。『金正日 隠された戦争』の韓国語版を出してくれた出版社アルファの柳良洙(ユ・ヤンス)社長になんとか2週間で印刷製本をやっていただけないかお願いしました。柳社長は「金正日を打倒するためには命をかけねばならない」という考えの方で、私の無理な注文にもこころよく応じてくれました。
1000冊の英語版作製の作業と並行して、私のかかわっている北朝鮮帰国者を守る会の冊子『脱北帰国者』2000冊の印刷製本もお願いしていましたので、二つ並行しての作業で、こんぐらがったり、大変でした。10日間で二つとも見事にできました。
5月22日、社長といっしょにソウル市内光化門の中央郵便局でストックホルム、アメリカ、日本など各地に発送作業。英語版1000冊、守る会の冊子2000冊は、小型トラックいっぱいの量です。それを上限20キログラムの段ボールに詰め、荷造りして何十箱も、次々に送り出しました。二人とも70歳前後の完全な老人です。汗だくになって丸一日がかりでした。柳良洙社長は本当によくやってくれたと思います。
柳社長は私より2歳上。大柄のたくましい方です。縦横に入り組んだ狭い路地に零細な印刷業者がひしめくソウル市忠武路の一角。その2階の一間が柳社長の会社です。階段は人ひとり通れる狭さ。勾配は60度くらいで手すりもない。のけぞってあおむけに倒れたら全治3ヵ月の重傷か、あるいはおだぶつだろうなと思われる階段を何十回上り下りしたことでしょう。
すべての作業が終わった次の日の夕方、柳社長は私を自宅に招いて奥さんの心づくしの料理でもてなしてくれました。ソウルにもこんなところがあるのかと思われる閑静な住宅街です。ソウル市の北にある北岳山のふもと。大統領府青瓦台の近く。樹木におおわれ、野鳥が餌台に姿を見せるのどかな山の中でした。お人よしの零細出版社のおやっさんと思っていたのですが、話しのなかで若いころ数年ドイツに留学したことがあると知り、人は見かけによらないものとあらためて思ったものでした。
●森と湖のストックホルム
6月6日、成田空港からデンマークのコペンハーゲン空港で2時間の乗り換え待ちを含めて15時間ほどかかってストックホルムに着きました。
宿舎は大学のキャンパスからほど遠からぬ高台にありました。4階建てのマンションは木の国らしく廊下も床も階段もみな木製。部屋はゆったりとして、6人がけのソファもあるリビング。台所と食卓もついています。
アジア太平洋研究所は歩いて15分のところにあり、赤レンガ造りのどっしりとした4階建てでした。由緒ある富豪が寄与したとかで、風格のある建物でした。歩いて1分の湖のそばに立っています。私の専用の研究室も用意されていました。
研究所の窓から木の間がくれに湖のさざなみが見えます。野鳥の鳴き声。リラが五分咲きで、窓からほのかに香りがただよってきます。快晴ですが、風は冷たく肌寒いぐらい。日本は梅雨のさなか、水害の被害も伝えられるなか、梅雨もなく乾いてさらさらの風。地平線までスモッグのない青空です。これまで見たこともない青い青い空の下で、スウェーデンが一番美しいといわれる季節を満喫しました。
夜11時すぎまで白夜で、日本の夕方のように明るい。夜12時ごろ、暗くなったなと思うと午前1時半ごろから空が少しずつ白みはじめ、小鳥が鳴きだします。小鳥も寝る間がないのでは?
研究所には40人ほどのスタッフがいるのでしょうか。ほとんど働かない。6月末から2ヵ月のバカンスが始まるので、そわそわしています。アメリカと違ってヨーロッパの人はアルコール好き。スウェーデンも例外ではなく、いたるところにオープンカフェがあり、昼から客でいっぱいです。これで国がまわっているなら死ぬほど働かされる日本はいったいどうなっているのか。休みも与えず利潤追求だけの日本の資本家の残酷さが腹立たしいかぎりです。
●研究所での講演
研究所での講演といってものんびりしたものです。アジア太平洋研究所とはいえ、アジアはヨーロッパからは遠い極東の地、関心の度合いはいまひとつという感じでした。日本語で約40分話し、質疑応答を含めて通訳入りで2時間の講演。池上雅子先生が英語に通訳してくれました。うまく訳すものだなあと感心しながら聞いていました。
いちばん関心があったのはやはり金日成の死亡原因についてでした。いくつか質問も出ました。金日成が死んだ1994年7月当時を思いだして、ロンドンの新聞で金日成死亡を知ったという人もいました。別の研究者は「避暑地に向う車の中でニュースを聞いた。同乗者がスウェーデンの朝鮮戦争休戦協定にともなう中立国監視委員もしていたことがあり、板門店に常駐していたこともある人だったため金日成死亡をめぐり話し合った」という思い出話も出ました。スウェーデン人で韓国語を教えている別の学者は「私も長く朝鮮半島にかかわっているが、金日成が金正日に殺されたというのは初耳だ」という感想もありました。
次の日、スウェーデン駐在スイス大使館のナンバー2の方が、別途話を聞きに研究所に来てくれました。池上先生の紹介です。前日の講演内容を池上先生が手短に説明したあと、大使館幹部が「金日成が殺された状況について知っていれば教えてほしい」といいました。
私はいくつか聞いたなかで最近の二つの話に合理性があると前置きして紹介しました。すでに『正論』に紹介したものですが、あらためてかいつまんで紹介します。
1.脱北した元の北朝鮮高官の話
1994年7月5日、6日の両日、金日成が招集した経済協議会が終わった次の日の7日も午前中会議が続いた。金日成は午後も続けようといって習慣の午睡に入った。その直後、会議参加者100人ほどはきゅうきょ平壌にもどれという金正日の指示でバスで引き返した。なぜか数人の人間は残った。いずれも熱烈な金正日忠誠派であった。午睡から目覚めた金日成は誰もいなくなったことを知り、怒りの目で宙をにらんでいた。そして残った数人を自室に呼びいれ、金正日のとった措置について厳しく叱責し平壌に戻ってよく伝えよと不満の言葉を並べ立てた。金正日に代わって何時間も叱責された幹部たちを金日成の副官は気の毒がって別室でとりなし、酒食でもてなした。深夜になった。まだ主席の部屋に明かりが灯っている。
「ちょっと様子を見てきます」といって席を立った副官は真っ青な顔で戻ってきた。金日成がすでに死んでいると伝えた。(この話を伝えた北朝鮮の元高官は、金正日忠誠派が金日成死亡のさなかに現場にいたことが金日成謀殺の疑念をぬぐえないと述べた)
2.脱北したエリート農学者、李民馥氏の話。「金日成を暗殺したのは金正日の密命を受けた軍人グループ」
7月7日の夜、平壌を飛び立ったヘリコプターが北に向かって飛んだ。その後突然機影が消えた。この事実は在韓米軍のレーダーも確認している。
金正日側の説明では、金日成が心臓発作を起こしたとの急報ですぐに医者、看護婦、医療機器を乗せたヘリを現場に急行させたが、豪雨をともなった悪天候でヘリは墜落した。
「これは真っ赤なうそだ。ヘリに乗っていたのは金日成暗殺チームだったのだ。金日成を殺し、戻る途中でヘリを爆破し、証拠隠滅したのだ」
李民馥氏の話です。彼は1995年に韓国に亡命した北朝鮮のエリート農学者。彼はこう言いました。「軍のベテランが操縦するヘリが悪天候ぐらいで墜落しますか?」
情報の出所は脱北した二人の北朝鮮高官だといいました。
李民馥氏は私にさらに詳しい話が聞けるように北朝鮮高官に会わせてあげようと言いました。そうなれば、また新しい情報をストックホルムにも必ずお伝えすると約束し、くだんのスイスの外交官とメールアドレスを確認して別れました。
●北朝鮮のミサイル乱射
研究所のスタッフのなかでも、いまの北朝鮮の問題点を的確に把握してい方はやはり池上先生でした。40代初めとお見受けする若さでストックホルム大学の国際的に知られたアジア太平洋研究所の所長をまかされるだけの力量の持ち主です。一見勉強のよくできる清楚な女子学生といった風情の方ですが、スウェーデン語、英語を流暢に話し東大とストックホルム大学の双方で博士号をとった学究には珍しく、各国の著名人とファースト・ネームで呼び合う社交性の持ち主です。学者であると同時に政治家の資質を備え、中学生を頭に3児の母親。超人的な日本女性です。
これまで政治社会学的視点から日米軍事研究開発共同化、日本の防衛調達過程分析に従事してきたといいます。池上さんの自己紹介の文章ではこう書かれています。
「ミサイル防衛開発問題などの研究から始まり防衛安全保障政策、東アジア地域安全保障などに問題意識が広がりました。しかし、最も情熱を傾けるのは軍縮軍備管理、特に核兵器廃絶をライフテーマにしています。学生時代、広島、長崎を訪れ、核物理学者の娘として科学技術の悪用がもたらす災禍にショックを受けたのが、このテーマを選んだ原体験です。この核軍縮の点から、北朝鮮問題に入り込みました」
現在は北朝鮮問題にも通じた専門家として国際会議でも幅広く活躍しています。私の何冊かの本もほとんど読んでおられました。とりわけ『金正日 隠された戦争』を高く評価し、金日成謀殺説を支持してくれました。金正日を相手に6カ国協議だ、話し合いだと言っているかぎり拉致も核問題も解決はない。武力による圧力ではなく、人権問題で北に迫ること、脱北者からの聞き取り調査の重要性を強調しながら人権問題で金正日を退陣させる戦略で国際的圧力をかけるべきだ―等々。私とほとんど意見が一致しました。
そんな話し合いのさなか北朝鮮によるミサイル乱射のニュースです。私もあちこちから意見を求められました。日本を離れてなんの情報もない、はずれているかもしれないが、と前置きして次のような感想を述べました。
これまで十数年間の金正日の軌跡を追ってきて感じることは、今回のミサイル発射の狙いは対外的というより国内向けとみられる。国民に大々的に公表していないところから軍内部、または党幹部向けに金正日が「威信」を誇示するためにとった措置ではないか。1993−94年の核危機も狙いは国民向けだった。反政府に向う北朝鮮人民の不平不満を、核でアメリカを挑発することによって反米にすりかえたのと同じ手口だ。当時の騒ぎ方と比べると今回はおとなしい。限定的な効果を狙っているとみられる。アメリカの金融制裁がきいて、軍高官や党幹部たちの不正蓄財に支障をきたしていると伝えられる。そうした不満で金正日が孤立しつつある。彼らの不満を抑えつける狙いがあるのではないか。
対処の仕方としては放っておけばよい。過剰に反応すれば金正日の思うつぼ。かつてクリントンがピンポイント爆撃だ、先制打撃計画だとか騒いでかえって反金正日の北人民の世論を反米で団結させ逆効果を招いたのと同じ過ちを犯す。
金正日のはなはだしい人権侵害を暴露し国際的制裁をいっそう強めること、私は金正日にとっていちばん泣きどころである金日成殺しをあらゆる手段で北朝鮮の民衆に伝え彼をいっそう孤立させ、無血で排除する戦略をとるのが得策だと考える。
こうした意見交換の結果、池上先生と基本的に意見の一致を確認しました。7月11日彼女は、その線で発言すると言ってロンドンで開かれる国際会議に出発しました。私は翌12日、ワシントンに向かいました。『金正日 隠された戦争』の英語版を広めるためです。
●酷暑のワシントンで
涼しいストックホルムから10時間かけてワシントンに着いた7月12日。なんと蒸し暑い!こんなに暑い国だったのかと、ほとほと閉口。こんな暑い国でよく4年間も住んでいたなあと思いました。異常高温で死者も出ているとのことでした。
次の日の13日夕方、旧知のチャック・ダウンズ氏と会えました。元国防総省の幹部だった人で、私のワシントン滞在中(2000年5月から2004年9月)に知り合いいろいろ教えてもらった人です。いまは北朝鮮問題の専門家としてテレビのコメンテーターとしても活躍しています。会ったのはワシントン中心地のジュポン・サークルにある日本料理店「すし太郎」。セットしてくれたのはワシントン在住の日本人の友人。
話題はやはりミサイル発射になりました。チャック氏はごく最近ソウルに行った際こんな話を聞いたと披露しました。金正日がこれまでは部隊を中心に忠誠を誓わせていたが最近は軍幹部を一人ひとり呼んで忠誠を誓わせている。これは彼が軍の中でも危機感を感じている表れではないか。あなたはどう思う?
アメリカの金融制裁以来軍内部で不平不満が高まっている話をして私も同意見だというと、彼は、「やはりそうか」というように納得の表情でした。英語版の完成を心から喜んでくれました。何人かの北朝鮮問題専門家に配りたいから次の日ある集まりに20冊持ってきてほしいと。その集まりはスザンナ・ショルテ女史が会長を務める「防衛フォーラム基金」の100人ほどの昼食会。チャック氏と隣りあわせで日本人の友人といっしょに出席。彼が通訳してくれたおかげで私は下手な英語を話さなくてすみ、助かりました。
こんな調子で毎日関係者を訪ね、本を渡し、金正日による金日成殺しを説明し、こんな人物をいつまでアメリカは相手にするつもりかと問いました。いまこそ金正日を排除する好機だ、中国を説得して平和的に金正日の排除に動いてほしいと私の主張を展開しました。みな熱心に聴いてくれました。とくに金日成が息子に殺されたことは知らなかった、どういう経緯でそんなことになったのかと強い興味を示しました。
昨年12月までブッシュ政権の高官をしていていまはシンクタンクCSIS(戦略国際問題研究所)の研究者にもどったマイケル・グリーン氏に会ったとき彼は「それは知らなかった」と金日成殺しに強い興味を示し、「きょうは早く帰ってこの本を読みたい」といいました。私がライス国務長官や官僚にもぜひ渡していただきたいと『金正日 隠された戦争』英語版を10冊手渡しました。「かならず渡します」と約束してくれました。
アメリカの政策担当者、北朝鮮問題研究者、在米韓国人研究者たちの主な人たちを訪ねて10冊20冊と手渡し、300冊近い英語版はたちまちなくなりました。夏休みにゆっくり読んでいただき、涼しくなったころもう一度2−3ヵ月かけてアメリカに来るからそのとき感想をお聞きしたい、と言うとみな快く応じてくれました。日本での反応よりはるかに直截で率直なことが大きな違いでした。
●励まされた二つの出会い
紙数がほとんどつきましたが、あと一つ二つふれさせてください。
ワシントンで北朝鮮人権問題アメリカ委員会の事務所を訪ねたときです。事務局長のクー氏は在米韓国人の2世。両親から習い大学でも学んだという韓国語は在日韓国人と比べると格段に流暢でした。彼が、あしたミュージカル「ヨドク・ストーリー」の鄭成山監督を囲む昼食会があるが、ごいっしょにいかがですかと誘ってくれました。ヨドクは北朝鮮咸鏡南道耀徳(ヨドク)にある強制収容所の名前です。そこでの目を覆わせる残忍な拷問、虐待、国家保衛部幹部による女囚の強姦、公開処刑など世界の悪という悪をすべて集めた現代の地獄です。そこから命からがら脱出した人たちの体験にもとづいたミュージカルが韓国で完成しました。韓国政府や北朝鮮信奉者の妨害のなかでのさまざまな困難を乗りこえた末の完成です。8万人近い観客を動員したとのことです。
監督自身脱北者で強制収容所の体験者でもあります。監督は今年37歳。黒のサングラスをかけていましたが、はずしたときの瞳が澄んでいることが驚きでした。やせた小柄な体は脱北者に共通していますが、過酷な体験を経た人にもかかわらず瞳の澄んでいることに私は打たれました。誠意という言葉を感じました。自己紹介をしたときです。
監督「はぎわらさんの名前は知っています」
私「どうして?」
監督「自由アジア放送で聞きました」
自由アジア放送とは米議会がスポンサーとなって朝鮮語、中国語、ベトナム語、モンゴル語などアジア各国語で放送している放送局のことです。その放送で私の『金正日 隠された戦争』について聞いたというのです。とたんに親近感をおぼえ打ちとけました。
昼食会は取材のためのもので通訳を入れて6人ほどでした。ワシントン・ポストやもう1社の記者がインタビューするためでした。そのやり取りを通じても誠実な方だとの印象を強くしました。今回の訪米はミュージカル「ヨドク・ストーリー」のアメリカ公演の準備のため。帰国の途次日本にも立ち寄り、東京、大阪で講演をするとのこと。再会を約しながら別れました(8月6日大阪で再会しました)。
日本人グループとの出会い。
拉致日本人救出のための組織がワシントンにもできたことをはじめて知りました。日本にもどる日の前々日、7月22日の土曜日でした。中心になっている浅野泉さんという方の自宅で10人の方が私をかこむ話にきゅうきょ集まってくださいました。在米韓国人1人のほかはみな日本人です。ワシントンで10人もの日本人に会ったのは初めてです。アメリカで日本語話しあえるとは願ってもない機会でした。アメリカ人と結婚した人、仕事で来た人、留学生、大学卒業後そのまま居残った人などさまざまの人生がありました。
このグループは昨年5月に結成、12月に拉致問題解決のために6人ほどでホワイトハウスの前に集まって米政府に要請行動をしたことをきっかけに、拉致問題や北朝鮮問題について学習会やデモを重ねてきたそうです。自分たちも何かできないかと話し合い、可能な行動を起していくことをめざしているといいます。いまは拉致家族会が出した本『家族』の英語版の翻訳や出版に力を入れているそうです。
4月に横田早紀江さんを招いて米議会で証言集会を開いたことやブッシュ大統領と早紀江さんとの会見にもこのグループがかかわったことを知りました。地道な努力が実を結ぶことを教えられた夜でした。
中心になっている浅野泉さんは滞米20年。公認会計士です。いとこの大沢孝司さんが北朝鮮に拉致された可能性がきわめて強いことをのちに知り、どうしても取り返したい、真相を知りたいと奥さんの前島明美さんや妹の優子さん(元米テレビ記者)たち20人あまりでグループを結成したとのことです。
その日の私を囲む学習会は昼食から始まって夜の9時過ぎまで続きました。熱心な質問が次々に出ました。別れ際浅野泉さんはこう言いました。
「金正日に拉致を解決せよというだけでは解決にならない。崩壊を期待するだけではいつのことかわからない。萩原さんの言うように金正日の金日成殺しを広く宣伝して彼を退陣させ拉致問題を解決できる次の指導者にとりかえることしか解決の展望はない。私は萩原さんの説に懸けています」
そう言って車の窓越しに私の手を強く握りしめました。浅野さんの手から力強いエネルギーをいただいた思いでした。ワシントンの最後の夜でした。
終わり
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