2005年05月07日

'05 1/27 「よど号犯妻」第二回公判 傍聴記録

100PENTX-IMGP0888_IMGP0888.JPG

*写真は、裁判終了後に正面の門から撮ったものです。

 あおいのママのメモから裁判の様子を再現しました。読みやすいように多少変えている部分もあります。また、聞きもれやカン違いなどもあるかもしれません。後ほど加筆・訂正する場合もあります。どうぞご容赦ください。

 また、あくまで田中被告は「旅券を返納しなかったのは事実だが、命令は根拠がなく不当」と無罪を主張しています。罪を逃れるために、自分に都合のいいように証言している可能性が高いと思います。

*田中協子被告は北朝鮮のことを「北」または「朝鮮」と言っていました。

*よど号妻逮捕直前、拉致疑惑に直撃
電脳補完録さんより

http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3193
*返納命令は不当と無罪主張 よど号メンバーの妻
電脳補完録さんより

http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3484

◆1人目の弁護士◆
(他のよど号妻の裁判でも腕を揮ったツワモノの女性です)

《大学時代について》

・1977年、私は愛知大学に入学しました。

・サークルは「朝鮮文化研究会」に入りました。そこでは南北朝鮮の関係史、社会主義研究を勉強しました。このサークルに入ったきっかけは、自分の兄弟がこのサークルに入っていて、遊びに行っているうちにずるずると入っていってしまったという感じです。

・「丸山薫」(まるやま かおる)さんの新鮮な詩が好きでした。
http://www.hamajima.co.jp/aichi_bungaku/kindai/16.shtml

・中学時代から社会主義に興味を持っていました。それから南の民主化にも関心を持っていました。

・サークルで「チュチェ思想」を勉強しましたが、よく理解はできませんでした。

・この頃、「豊橋親子劇場」というところによく行っていました。

・大学2年生の時に中退しました。「このままでいいのか?」と、自分の将来が見えなかったからです。それと高校時代から日本の受験体制に疑問を持っていました。

・海外へ、特に「東ドイツへ留学して社会主義の大学で勉強したい」と思いました。「世界を見てみたい、東欧に留学したい」という思いが募りました。それで大学を中退しました。

・東ドイツに行きたかったのですが、自分の学力に自信がなかったので、とりあえず家族には「ブルガリアに行きたい」と言いました。

・家族には「3年くらい居たい」と伝えました。留学資金は、大学時代からのアルバイトで貯めたものと家族からの援助です。

《日本を出国してからの足どり》

・1977年3月末頃に日本を出国しました。まず香港に行って、そこで格安チケットを買い、数日間滞在しました。

・次にスイスに行きました。チューリッヒに1ヶ月くらい住みました。スイスでは、旅行をたくさんしました。お金をだいぶ使ってしまい、つらくなって「これからどうしようか」と考えました。言葉は英語を使いましたが、日常会話程度でしたら困りませんでした。このスイスで知り合った方が「今、ユーゴスラビアがおもしろいですよ。行ってみたらどうでしょう?」と教えてくれました。

・1977年5月、ユーゴスラビアのデオグラードに行きました。お金をだいぶ使ってしまったので、そこでの生活は節約しようと心に決めていました。アルバイトをしながら留学先を調べました。ここでは個人教義を受けていて、語学学校に行くことは考えませんでした。1978年3月まで滞在していました。

・ここで他の「よど号妻たち」に会っていません。八尾恵さんの言っていることは事実に反することです。

*東京地裁で2002年3月12日に開かれた「赤木恵美子被告」の旅券法違反事件の公判で、「八尾恵証人」が証言した要旨などはこちらに載っています。
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3484

《「よど号犯 田中義三」との出会い 結婚》

・夫の田中義三とは、1977年8月にユーゴスラビアのデオグラード市内の食堂で知り合いました。彼はニコニコしながら私に話しかけてきました。当時ここでは日本人がめずらしかったので、話しかけてきたのだと思います。

・知り合った当初は、田中義三が「よど号犯」だとは知りませんでした。「東欧で貿易をしている」と聞いていました。

・印象は「まじめな人」「しっかりしている人」と好感を持ちました。しばらく付き合いましたが、私は「いい人にめぐり会えた」と思いました。翌年、田中義三との結婚を考えました。

・1978年2月末か3月に「結婚してほしい」とプロポーズされました。その時に「自分はよど号犯で、国際指名手配をされていて、北朝鮮に生活の基盤を置いている。」と告白されてビックリしました。

・しかし、私は70年安保闘争を当時テレビで見ていました。ベトナム戦争も反対だったので、告白には驚きましたが理解もしました。

*70年安保闘争史略年表
http://www.asahi-net.or.jp/~gr4t-yhr/zennen.htm

・(「結婚は迷ったか?」という質問に対して)日本にいる家族のことを考えて迷いました。しかし田中義三から「北朝鮮に一緒に来てくれ」と言われて、異国の地で国際指名手配されているのに、こうして告白してくれたのは私を信頼してくれている証拠だと思い、逆に感動しました。

・彼は「よど号ハイジャック事件を起したことは間違っていたと思う。新しく出発したい。自分と人生を一緒に歩んでほしい。」と言ってくれて、すごく感動しました。(涙声で話していました・・・)

・1978年5月、北朝鮮で結婚式を挙げました。この時「よど号妻」の金子さんと魚本さん以外の方は参加していました。

◆2人目の弁護士◆

《結婚後 海外へ》

・(「朝鮮の印象は?」と聞かれて)自分の手で自分の国を作っていると思いました。人々は「私はこの国の主人だ」と言っていました。ユーゴスラビアと朝鮮とでは、国の体制が違っていました。

・夫の田中義三は、よど号ハイジャック事件についてこのように言っていました。「よど号ハイジャックは間違った闘争であった。大義の為と言いながら、人々を犠牲にして目的を達成するのはおかしい」「何故、人々を犠牲にする闘いをしてしまったのだろうか」と、自分で過去を総括していました。それはとても苦しい総括ではなかったのでしょうか?

・よど号犯とその妻たちは、結婚はしても日本への帰国は絶望的でした。「日本で生きたい」という思いが強かったです。私は今回その基盤作りをしようと思って帰国しました。

・1978年5月から2004年10月19日に帰国するまでの間に、何カ国か海外に出ました。

・1979年12月にフランスへ行きました。それは私の日本の家族に無事の知らせをしたかったからです。家族との(留学の)約束は3年でした。手紙で「心配はしないで」と書いて送っていましたが、自分の住んでいる場所(朝鮮だと)は知らせていませんでした。ですからフランスで家族に連絡をとって、安心させようと考えました。

・フランスには自分の旅券で入国しました。

・(「朝鮮から出国する際、共和国の北朝鮮工作員と接触したか?」という質問に対して)日本の旅券を朝鮮の外交官の方にお任せしていましたので、具体的に自分にはわかりません。後にその外交官の方が「キム・ユーチョル」「チェ」という名前だったということを、週刊誌で知りました。

・その外交官にユーゴスラビア(今のクロアチアのザグレブらしいです)で出国手続きをしてもらい、単身フランスへ入国しました。フランスを選んだ理由は、ビジネスチャンスがあるのではと思ったからです。

・フランスでは語学学校へ通いました。他のよど号妻たちが結婚後フランスへ入国したらしいと聞きましたが、私は彼女たちとフランスで会っていません。夫の田中義三とも行動を共にしていませんでした。

・八尾恵さんが「日本人を朝鮮へ連れて行こうとした」とか何とか言っているようですが、そんなことはまったくありません。留学が第一ですから。

《日本に戻る》

・1980年7月に一度日本に戻りました。その理由はプライベートなことなので、一切答えたくはありません。朝鮮への連絡は、日本にいる仲間の方を通じて電話でしました。その方を通じて平壌にいる時も手紙や連絡がありました。

・日本では自分の実家のある愛知県豊橋市に住みました。夫や子どものいる朝鮮へ戻るため、本の販売会社に就職して、お金を作りました。

・その頃に日本で他のよど号の妻たちに会ってはいません。

・(「両親によど号妻だと話したか?」という質問に対して)よど号犯の妻であることや、生活の本拠が朝鮮であることなど一切話してはいません。

・日本を出国するために両親には「ヨーロッパでお世話になった方に、あいさつもしないで帰国してしまった。事情を説明して帰って来るから、もう一度ヨーロッパに行かせてほしい。ちゃんとけじめをつけたいから」と説得しました。次兄にも頼んで、付き添いを条件に出してもらいました。

《再度北朝鮮へ》

・次兄と共にコペンハーゲンからウィーンへ行きました。そこで朝鮮に戻るために北朝鮮外交官に手伝ってもらうことになりました。次兄はその方に会っていません。私は単独で会いました。

・次兄は常に不審がっていましたので、その外交官に会う口実として「買い物をしてくる」と言ってホテルを出て、そして会いました。

・私は次兄に「ヨーロッパでもう一度やり直したい」と話しました。次兄は「お前は最初からそのつもりでここへ来たのか?」とものすごく怒りました。しかし私の性格、一度こうと決めたらテコでも動かないという性格を知っていたので、非常に困っていました。

・家族は1992年4月まで、私がよど号妻だとは何も知りませんでした。

・次兄は困っていましたが、結局私はウィーンを出ました。ウィーン→ベルリン→モスクワを経由して朝鮮に戻りました。

《田中協子被告の朝鮮での役割》

・私の役割は1980年代は自分の子どもの養育と教育でした。また、「日本を考える」という機関紙の編集にも携わっていました。

・1990年代は「日本の自治と・・・」(聞こえませんでした)レター通信「お元気ですか」という雑誌?に投稿していました。それからビデオの編集もしていました。

《旅券について》

・1988年に旅券返納命令があったと聞きました。1992年4月に私はよど号妻であると公表し、代表団に会いました。

・私は1982年3月にオランダのハイムで旅券の更新をしました。そして5年後の1987年にコペンハーゲンで更新しました。日本のパスポートを最後に使ったのは1987年6月です。オーストリア→ハンガリーを経由して朝鮮に帰りました。

・(「旅券返納命令を発令されるようなことをしたのですか?」という質問に対して)まったくありません。日本側に、私がスパイをやりかねないという偏見があったのではないでしょうか?(ソウル)オリンピックテロを口実にしながらの、対策の1つであったと思います。

・(「リーダーの田宮高麿から旅券返納命令について何か指示されたか?」という質問に対して)私は田宮さんからこの件に関して、何も指示されていませんしされたこともありません。

◆3人目の弁護士◆

《旅券返納命令を知ったのは》

・(「旅券返納命令を知ったのはいつごろですか?」という質問に対して)私はこの頃の記憶が定かではありませんが、1988年9月に入ってからだと思います。田宮高麿さんに呼ばれまして「日本の知人からこれが送られてきた」と「かんぽう?」のコピーを見せられました。それで、旅券返納命令が8月6日に発令されていたことを知りましたが、もう「期限が過ぎていた」という記憶が残っています。その場によど号妻の1人森順子さん(田宮の妻)がいたと思います。

*よど号犯妻、帰国へ申請か 電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3557

・(「旅券返納命令が発令された8月6日はどこにいたのか?」という質問に対して)たぶん、東海岸に行っていたと思います。後で、5月頃に日本のNHKなどのメディアで「よど号犯の女性(妻など)に旅券返納命令が出た」と放送されたようですが、私はそれを聴いていませんでした。5月頃は子どもの宿舎(養育目的の)に行っていて、ラジオを聴いていたはずなんですが、そのニュースの記憶がありません。

・朝鮮ではラジオはリアルタイムで聴けます。新聞も希望すれば1週間から10日遅れで郵送されてきます。テレビもNHKが見れますが、電波事情が悪く、午後9時台になるとひどくて見ることができません。テレビを見る習慣は午前7時と午後7時でした。あと見るとしたら午後10時です。私たちには、あまり見たり聴いたりする習慣はありませんでした。ですから他のよど号妻たちも日本のメディアから知った方はいないと思います。

・(「田宮高麿にかんぽう?を送ってきたのは誰か?」という質問に対して)柴田勝弘さんの支援者ではありません。(柴田か?と聞かれたので)どういう関係者かわかりませんが、よく手紙が送られてきていました。その方は男性です。名前は覚えていません。たぶんよど号関係者の私たちに励ましをしてくださる支援者が送ってくださったのでしょう。田宮さんが知ったのも8月20日になってからです。

《ソンダン?の宿舎とインフラ状況》

・その頃、私たち家族は東海岸のソンダン?で海水浴に行っていました。平壌から汽車で15時間くらいのところです。そこには日本でいう国民宿舎のような施設があり、宿泊していました。

・宿泊していた期間は、8月5日から8月29日か30日だと記憶しています。はっきりしませんが、ただ子どもの学校が始まる直前までいました。

・何故長期間その場所にいたのかというと、ちょうど帰る予定の頃に大雨が降りました。それで土砂崩れが起きてしまい、鉄道が不通となってしまいました。当時娘がまだ2歳でしたから、安全のために無理に帰ることはせずに延期してその宿舎に留まりました。

・朝鮮では交通遮断はよくありました。非常にインフラ状況は悪いです。そのために平壌への帰宅が遅れてしまいました。ですから旅券返納命令が発令されたことなどをこの時点で知ることはできませんでした。

・ソンダン?の宿舎は2棟ありまして、私たちが宿泊した棟は部屋が5つか6つありました。私たちの部屋以外は使われていました。

・この宿舎を使いたい時は、当該機関に申し込みます。そこで案内の方に「そこへ行きたい」と言いました。この宿舎には電話がありませんでした。8月20日の時点で田宮さんが旅券返納の件を私に知らせたくても、無理だったと思います。

・(「平壌の電話事情は?」と聞かれて)1990年半ば頃には光ファイバーが導入されて状況はよくなりました。しかしそれ以前は電話をしても聞き取れないとか通じないとか、非常に悪い状況でした。平壌では、電話線を地下に張り廻らせていましたので、雨が降ると通じないというようなことが多くありました。

・(「地方から平壌に急ぎの連絡をする場合、汽車の便や電報などが使われたのでは?」という質問に対して)それは私にはわかりません。

・(「案内の人を通じて旅券返納命令の件を聞かなかったのか?」と聞かれて)聞いていません。

・(「田宮から案内の人に連絡はなかったのか?」と聞かれて)できなかったと思います。

・(「案内の人はどういう人ですか?」という質問に対して)私たちの宿舎での便宜を図ってくださる方でした。日本でいうツアーの添乗員みたいな方でした。通常、外国人に付きます。しかし生活の干渉はしませんでした。

《旅券返納命令を聞かされて》

・(よど号妻の)魚本民子さんは1988年8月28日に(海外から)朝鮮に帰国しました。彼女も「旅券返納命令は聞いていない」と言っていました。そんなことがあったような記憶?という程度です。

*二十八年ぶりの故郷 精一杯の親孝行を・・・・・?
電脳補完録さんより

http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3216

・私はその頃、子どもの学校の新学期の準備にあわただしく過ごしていた記憶しかありません。東海岸のソンダン?から平壌の宿舎に戻り(と思います)、子どもたちの宿舎に行きました。車で30〜40分の場所です。

・田宮さんが居住していた宿舎でよど号妻たちに「あなたやタカ子さんたち(福井タカ子だと思います)に、旅券返納命令が発令されている」と聞かされ、そのことを報じた「かんぽう?」のコピーを見せられました。

・そのコピーを見た時、率直に言って「とんでもない!」「(ソウル)オリンピックテロに絡めて私たちを悪者にしている」「そういうことをしていないのに・・・」と思いました。旅券返納命令は、もうすでに期限が切れていましたので「仕方がない」とその時思いました。

・(逮捕され裁判になって)どうしてこのようなことになったのか、異議申し立てをしたいと考えています。

《旅券返納手続き》

・(「旅券は知った時点で返納しようとすればできたか?」と聞かれて)それはできませんでした。これは私の身分を証明する唯一のものですから、恐くて日本へ郵便などで送ることなどはできません。今回のように処罰されるとは本当に知りませんでした。

・(「どうやって旅券を返納しようと考えたか?」という質問に対して)私が「よど号犯の田中義三と結婚したことを公表してから」と考えていました。日本の外務省にきちんと事実を話して、返納手続きをしようと思っていました。そして新しい旅券を発行してもらうつもりでいました。

・1992年4月に、よど号犯と結婚していることを公表しました。また、金日成主席が「朝鮮に日本人がいる」と公表してくださいました。しかしその時に、家族まで(子どもたち)朝鮮でお世話になっているとは言えませんでした。あのようにおっしゃってくださっているのに、家族までお世話になっていると公表したらご迷惑をおかけすると考えたからです。

・それは、よど号=過激テロと考えられていたからです。日本当局はそのように考えていました。

・1992年5月に(帰国支援センターの)山中さんに朝鮮に来ていただいて、日本への帰国や旅券返納命令についての話し合いをしました。山中さんとはこの時が初対面でした。

*「かりの会」帰国支援センター
http://www.karihayuku.ecnet.jp/

・9月には、弁護士のミシマ?さんと話合い、「これは行政命令ですから、従わなくてはいけません」とおっしゃって、11月に山中さんとミシマ?さんが外務省に行きました。そこで私たちの出入国の便宜を図ってもらえるようやりとりをお願いしました。「いろいろ言われているが、事実はこうですから」と帰国を含めて話合ってくださいました。外務省はその時「はい、わかりました」と、具体的な指示などはしなかったそうです。それなのに返納手続きをしている最中に私は国際指名手配されてしまいました。これは考えてみると、その頃核問題でアメリカとの関係が影響していると思われます。米朝間でこの問題が大きくなってしまいましたから。

・私たちが帰国すると「ただでは済まないぞ!」「北の工作員だろう!」というような偏見があったと思います。私たちを弾圧するという・・・。

・2004年8月に旅券を返納しました。返納が遅れた理由は何度も説明しましたように、帰国が遅れたからです。

《日本国民として》

・(「裁判終了後刑が確定して外に出られたらどうしたいか?」という質問に対して)私はこの日本の地において、日本国民として生活の基盤を築いていきたいと考えています。

・「よど号問題」は、日本では政治的な悪化に利用されてきました。私はよど号関係者全員の帰国を志していきたいと思っています。

・夫の田中義三は1996年、偽札事件をでっちあげられて現在熊本刑務所にいますので、夫の力になっていきたいです。(1996年3月、カンボジアで拘束タイに移送 2000年6月日本側が逮捕)

・(「どこに住む予定か?」と聞かれて)私の実家である愛知県豊橋市に帰って、年老いた両親に親孝行をしたいと思っています。そして娘たちと暮らしたいです。

・(「どんな職業に就きたいか?」と聞かれて)職業については、これというものはまだありません。

・(「この旅券返納の裁判についてどう思っているか?」という質問に対して)(しばらく沈黙のあとに・・・)第一回公判の冒頭陳述で延べたとおりです。

*返納命令は不当と無罪主張 よど号メンバーの妻
電脳補完録さんより

http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3484

・この裁判は、敵対する日朝関係の1つだと思っています。私はこの法廷で事実を訴え続けたいと思っています。このような事件(旅券法違反での不当な逮捕)が二度と起こらないように訴えていきたいです。

・私たちのことを「よど号グループ」として弾圧するのは正しくありません。ちゃんと事実を話していきたいと思っています。

・(子どもたちのことを聞かれて)娘との接見は「今はだめだ」と禁止されています。私としてはそんなこと知りませんでした。(涙ながらに声を詰まらせながら・・・)特に三女が心配でなりません。娘はまだ中学生です。まだ母親が必要なんです。会いたいです。会いたい・・・。

(傍聴の記録はこれで終了です)


*石岡・松木さんを拉致したよど号犯妻等、帰国へ(1)
電脳補完録さんより

http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3513
*石岡・松木さんを拉致したよど号犯妻等、帰国へ(2)
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3514
*石岡・松木さんを拉致したよど号犯妻等、帰国へ(3)
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3515
*石岡・松木さんを拉致したよど号犯妻等、帰国へ(4)
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3516

*あの大物工作員の末路 救う会神奈川掲示板より
http://6541.teacup.com/sukuukai/bbs

*「よど号」ハイジャック事件 無限回廊さんより
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/yodo.htm
posted by あおいのママ at 15:56| 千葉 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | よど号犯妻公判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/3489719
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック