【'07 1/15 AERA・No.2より】 編集部 小北清人(こきたきよひと)
幼い頃から、父が語るモンゴルの草原に憧れた。どうしても行きたい。思わぬチャンスと思ったのだろう、彼女は羽田から飛び立った。しかし、行き着いた先は北朝鮮だった。

'76 いま、どこに・・・ 色あせかけた、1枚の写真がある。写っているのは、福留貴美子さん。かつて高知の自宅前で撮影されたものだ。昼は働き、夜は専門学校に通っていた。旅先で知り合った友と騒ぐのが好きだった。
高知県警本部5階の一室。2006年12月18日、午後のことだ。「救う会高知」の役員4人に、警備部長が切り出した。「精査した結果、受理すべき相応の理由があると判断しました。関係部署と連携を取り、事案の全容解明に努力します」
「もう一つの拉致」を訴えた告発状は受理された。4人は県庁の県政記者室で記者会見。声明文が読み上げられた。
「物部川が流れ、山桃が実る故郷へ貴美子さんが帰ってくる日まで・・・」
福留貴美子(ふくとめきみこ)さん。高知県出身。1976年7月、「モンゴルに行ってくる」と言い残して日本を出国したまま行方不明になった。失踪当時、24歳。その彼女が北朝鮮にいて、あの「よど号事件」の犯人の一人の妻にさせられていたことが明らかになったのは、失踪から20年後、96年夏のことだった。
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「ある女性を捜しているんだ。協力してくれないか」
神奈川県茅ヶ崎市の喫茶店。筆者がジャーナリストの高沢皓司氏と会ったのは96年7月だった。高沢氏には平壌(ピョンヤン)にいるよど号ハイジャック犯のリーダー、田宮高麿へのロングインタビューや、メンバーの妻となった日本人女性たちへのインタビューをまとめた著作がある。よど号グループに独自の人脈を築いていた。が、最大の取材源だった田宮が前年11月に急死、グループとの間に亀裂が生まれていたように思う。
当時、筆者は朝日新聞大阪本社社会部の記者だった。高沢氏と旧知の社会部デスクに彼と会わないかと言われ、茅ヶ崎に飛んでいた。
女性の特徴はおおむね、こうだった。「高知県出身で、姓はフクトメかフクトミ、下の名はキミコとかキメコとか・・・。高校では剣道部に所属し、山間地の実家には大きな山桃の木がある。彼女が、よど号の岡本武(おかもとたけし)の妻なんだ」
よど号ハイジャック事件について簡単に説明しておこう。
69年1月に東大・安田講堂が陥落し、学生運動が退潮する中、武力闘争を志向する過激派グループ「赤軍派」が生まれた。70年3月31日、赤軍派メンバー9人が羽田発福岡行きの日航機よど号をハイジャック、乗客を人質に、平壌に向うよう要求。交渉の末、よど号機は平壌から日本に戻ったが、9人は平壌にとどまった。
京大農学部出身の岡本武は有力メンバーだったが、80年代になると外部に姿を見せなくなった。80年代半ば、日本に届いた手紙には「朝鮮で当地の女性と結婚し、幸せな生活を送っている。そっとしておいてほしい」。自身の朝鮮名、妻の北朝鮮女性の名前も記されていた。
電話攻撃で人物は割れた 記事が出た2日後、死亡情報が流された
その妻が、実は朝鮮人ではなく、高知県出身の日本人――。高沢氏は前年春に田宮から情報を得ていた。
大阪に戻り、高知県の電話帳を取り出し、「フク」から始まる姓に片っ端から電話をかけて「親類か知人に、こういう特徴の人はいませんか」と聞いた。対象は約200件。何十件目かで「これは」という人に当たった。「70年代半ばに娘さんが行方不明になった福留さんというお宅がある」。「北朝鮮」という話も出てきた。結果として該当の女性は「福留貴美子」で、実家の住所もわかった。
目指す家は高知市からタクシーで1時間余りの町にあった。「貴美子はうちの娘ですが」母親の信子さんは、貴美子さんの写真を見せてくれた。貴美子さんの私物の大半は、父・正信さん(84年死去)が「もし北朝鮮にいるのなら大変なことになる」と焼却していた。「北の影」を恐れたのだろうか。家に「山桃の木」はなかった。だが、貴美子さんがいたころに一家が住んでいた、林道を上った山頂に近い家には確かに「山桃の木」があった。
「妻は20年前失踪の高知県の女性/『よど号』事件 岡本容疑者」8月7日付の朝刊に記事は出た。
2日後。「岡本夫妻、北朝鮮で死亡か?」朝日記事への回答のような記事が、各紙に掲載された。情報源はよど号グループの日本国内の支援者とみられ、福留さんを妻と認めたうえで、2人が88年ごろ作業中の事故で死亡した、というものだった。
8月22日、田宮に代わるグループのリーダー、小西隆裕(こにしたかひろ)の手紙を携えた支援者が信子さん宅を訪れた。手紙は、「2人は80年代初め、グループと別に北朝鮮の工場か農場で働きたいと申し入れてきた。84年には別の招待所に移り、話し合いを続けたが、合意に至らなかった。86年夏、地方の農場に行くことになって子供2人を我々に預けたが、88年夏、土砂崩れで死亡したとの通知を北朝鮮側から受けた」などと説明し、訪朝を促していた。
その後も、よど号グループと親交のあった高知県選出の井上泉元社会党衆院議員(故人)、社会党高知県本部訪朝団の一員として訪朝経験がある病院事務長、自治労出身の元県議ら高知の「よど号」人脈と東京の支援者が相次いで訪れ、貴美子さんの死亡届提出と訪朝を信子さんに詰め寄った。
97年2月、横田めぐみさんの拉致問題がアエラと産経新聞に報じられ、国会質問に取り上げられた。3月にはめぐみさんの両親らが「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」を結成する。しかし、朝鮮労働党と友好関係にあった社会党の後身、社民党系の月刊誌7月号には、めぐみさん拉致を「荒唐無稽で、創作された事件というほかない」という文章が堂々と掲載されていた。
2000年、東京での拉致被害者救出集会に信子さんは高知から参加、貴美子さん失踪の真相究明と救出を訴えた。信子さんは02年1月に亡くなる。

*北朝鮮で撮られた福留さん(右)の写真。左は故・田宮高麿幹部の妻、森順子(もり よりこ)容疑者。いまも平壌にとどまる。
'96 真夏のスクープ 「岡本容疑者の妻は高知の女性」。記者は報じた。が、経緯は不明だった。彼女が主体思想を学んだ形跡はない。よど号との関係も見えてこない。騙されて出国していたとは――。記事には、拉致の視点は欠落していた。
妻は20年前失踪の高知県の女性/「よど号」事件 岡本容疑者
故田宮容疑者、生前に明かす
日航機「よど号」ハイジャック事件で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に渡った元赤軍派メンバーのうち、ただひとり現地の女性と結婚したと伝えられていた岡本武容疑者(五一)の妻が、実際は高知県出身の日本人(四四)であることが六日、わかった。公安当局もこの女性の確認を急いでいる。この女性は高校を卒業後上京し、「海外旅行に行く」と言い残したまま失踪。一九七〇年代半ばに北朝鮮に渡ったらしい。岡本容疑者は政治的対立から他のメンバーと離れているといわれ、動静は不透明のままだ。
「よど号グループ」のリーダーだった田宮高麿容疑者=去年11月に死亡=が生前、ジャーナリストの高沢皓司さん(四八)に明らかにしていた。
それによると、この女性は七六年夏に、第三国経由で北朝鮮に入った。現在、岡本容疑者との間に十代後半の娘が二人いるという。
高知県在住の母親(七九)らの話では、女性は県立高校を卒業後、東京で就職。
都内の同じアパートに住んでいた友人に七六年七月、「海外旅行に行く。年末には帰ってくる」と言い残して出たまま、行方を絶った。荷物は部屋に残したままだった。
翌七七年夏、この女性の名前で「お金には不自由していない。もう一年ほど外国にいるつもりです」と書かれた、東欧の消印の手紙が届いた。これを最後に実家への連絡は途絶えた。
母親は「娘がいなくなってから眠れない毎日が続いた。でもどこかに無事にいるのではないかと思い、それを支えに二十年間、生きてきた。元気で帰って来ることだけを願っている」と話した。
岡本容疑者の動静についてはこれまで、「北朝鮮の女性と結婚し、北朝鮮に帰化した」とされていた。
よど号ハイジャック事件
一九七〇年三月、赤軍派メンバー九人が日航機「よど号」を乗っ取り、北朝鮮行きを強要。同機は平壌に到着し、メンバーは北朝鮮当局に投降した。吉田金太郎容疑者(死亡)を除く八人とも現地で結婚しており、岡本容疑者を除く全員の相手が日本人とされていた。
1996年8月7日付・朝日新聞朝刊
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「何だって?本当?川口(順子)外相の間違いじゃないの?」02年8月末、平壌。アエラに異動していた筆者は北朝鮮にいた。北朝鮮に入りたいマスコミ関係者は、北朝鮮当局か在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に申し込むか、声がかかるのを待つ。が、表玄関では無理とみた記者は独自ルートを持つ筋と接触し、入国を試みる。筆者もその手を使った。
農場見学を終えて移動中の小型バスの中。案内人が興奮した様子で切り出した。「小泉首相が、わが国を訪問する」模範農場のスピーカーから、それを伝える放送が流れたという。信じられない。首相は「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」と明言していた。北朝鮮が拉致を認める?あの北朝鮮が?
案内人は有頂天な様子で、市民に感想を聞こうとする筆者らを何ら止めようとしなかった。「近くて近い関係になればいいと思います」。事前学習したように、女性が確か、こうしゃべった。話を終え、筆者らがその場を離れようとしたときだ。女性は案内人に近づき、オドオドした様子でいった。「これでよろしかったでしょうか?」「よしよし」と満足げに応じる案内人。相互監視の中では住民は与えられた役柄を演じるしかないのだ。
その数日前の夜、よど号グループの2人と会った。仲介者の条件は「絶対にマスコミ関係者とバレないように。きわどい質問もなし」。場所は外国人用ホテル地下のカラオケルーム。2人は「無罪帰国が実現しない限り、日本には帰らない」と持論を展開し、昔の学生運動用語を連発する彼らの周りだけ、時間が凍結されたようだった。
金正日が拉致を認めた 騙されて入った彼女も拉致被害者ではないのか
話が終わり、土産の食べ物や洋酒を手にロビーに出た2人を短髪に白のスーツ、鋭い目の大柄な男が待っていた。男に促されるように2人は高級外車に乗り込み、平壌の闇に姿を消した。
9月17日、日朝首脳会談。金正日総書記は日本人拉致を認め、日本中が衝撃で揺れた。よど号グループが欧州で拉致した3人の名前もあった。拉致問題は日朝の最大テーマとなり、日本政府による新たな拉致被害者認定が始まった。
05年4月、田中実さん、認定。06年11月、松本京子さん、認定。
福留貴美子さんはどうか。事件のカギは「モンゴル」だ。同級生たちの話によると、戦前に旧満州で憲兵をしていたともいう父親は、幼い彼女に寝物語でモンゴルの話を聞かせていた。高校の入学式も卒業式も父親が出席し、彼女は「お父さん子」だった。大草原を駆け回るイメージに憧れ、モンゴル関連の本を集めていた。
警察官に憧れ、高校で剣道部に。が、採用試験に落ちて警備会社に就職。70年の大阪万博の警備にも関わった。東京に転勤したが、間もなく退社。昼は働き、夜は保育専門学校に通った。
彼女を送り出した人間と受け入れた人間がいる 北朝鮮と直結した―
モンゴルに行きたい思いは消えなかった。独学でモンゴル語を勉強し、友人と会う時もモンゴル語の辞書を持ち歩いていた。モンゴル行きの貯金もしていた。しかし、70年代半ば、社会主義体制下で閉鎖政策のモンゴルに一人で行くのはまず不可能だった。
「日本とモンゴルは72年に国交正常化するが、一般の人が行こうと思っても到底無理。留学も、75年暮れに東京外大の学生2人行ったのが最初。観光は1週間程度で、費用は約50万円。旧軍関係者の墓参目的で行く人が大半。当時、私は東京外大の学生だったが、月の生活費が5万円。とても出せる額ではなく、諦めたのを覚えている」(窪田新一社団法人日本モンゴル協会理事長)
都内のモンゴル大使館や日本外務省を訪れた彼女は門前払いされる。「モンゴルへの直行便はない。でも、第三国経由なら入れる」。諦めきれない思いを彼女は友人に打ち明けている。
そんな彼女からモンゴルに行く話しを幼なじみのAさんが聞いたのは、76年春。Aさんは3年ほど、福留さんとアパートで同居していた。「途中で、ある人と落ち合えれば、モンゴルに行ってくる。落ち合えなかったら年内に帰ってくる」しかし、どこで、どんな人間と会うかを彼女は教えなかった。「そう不思議には思わなかった。あの頃はフラッと海外に出る人が結構いた。放浪の旅から戻った友達もいたから」
7月中旬。Aさんら友人たちが福留さんと一緒に山手線に乗った。「羽田空港まで送ろうか」しかし、福留さんは「すぐには行かない。一泊して出るから」と断った。有楽町駅か浜松町駅か、友人たちの記憶は食い違う。いずれにせよ彼女は「じゃあ」とホームに降り、姿を消した。
「いま羽田空港。いまからモンゴルに行く。2、3ヵ月、ゆっくりモンゴルを見てくるから」郷里の友人に彼女は、念願がかなった喜びの電話をしてきた。「親には言ったの?着いたら必ず連絡ちょうだい」
国内の旅に出ると、旅先から絵はがきを送ってくれる彼女だった。その年の秋ごろ、彼女から手紙が届いた。消印は東ベルリン。「もう少しでモンゴルに入れる」。彼女の筆跡だった。「キミちゃん、夢に向って一歩一歩近づいているんだな」友人はそう思った。
彼女がどこで、誰に会ったかはわからない。しかし、行き着いた先は北朝鮮だった。出国から3ヵ月後には長女を妊娠している。
平壌で彼女と一緒だった「よど号メンバーの妻たち」に一人、八尾恵元店主は著書に書いている。「(労働党の)指導員は福留さんを岡本武と結婚させようとしましたが、彼女はなかなかそれを承諾しませんでした」「『福留さんは岡本に夜這いされて言うことをきくようになった』という話をよど号メンバーの男性たちが笑い話としてよくしていました」
福留さんは「モンゴルに憧れ、行くはずだったのにここに来てしまった」と悲嘆したという。
「妻たち」はみな75〜77年に北朝鮮に来た。小西隆裕の恋人を除く大半が北朝鮮の「主体(チュチェ)思想」の普及を唱える団体に関わったことがあり、勉強名目で北朝鮮行きを誘われ、現地でよど号メンバーとの結婚を労働党に迫られたとみられる。金正日主席の「よど号メンバーにも結婚相手を見つけ、代を継いだ革命を行わなければならない」との指示を受け、労働党は、思想的に北朝鮮に同化できる女性たちに目をつけたようだ。その意味では「妻たち」も騙された「拉致被害者」といえるだろう。
が、福留さんには主体思想と関わった形跡がみえない。自室の本棚に北朝鮮関係の本はなかった。彼女が残したアドレス帳を見た関係筋は「主体思想普及の組織関係者の名前は見当たらない」。友人Aさんも「長い間、一緒だったからわかりますけど、貴美子さんは運動みたいのはやってないですよ」と明言する。
アドレス帳を見る限り、専門学校で共産党系の自治会活動に関わったフシはある。が、学生運動に深入りした形跡はない。しかも共産党と朝鮮労働党の関係は当時悪化していた。
気になるのは労働党の友党だった社会党。岡本武の妻だと報じられ、すぐ母親の懐柔に動いたのは社会党系の面々だ。「救う会高知」が告発状の中で福留さんと関わった可能性があると暗に言及した、モンゴルの旅行では老舗の旅行会社がある。当時、この会社のオーナーでモンゴルとの親善交流団体を運営する人物は、北朝鮮との文化交流団体の理事。自治労会館内に営業所を置いたこともあり、周囲は「もともと自治労、社会党系」との見方で一致する。
しかし、この人物は「まったく寝耳に水の話。福留なんて名前も初耳だ。警察だって来てない。よど号とは昔、田宮高麿が本を買ってくれと訪ねてきたときに会った程度。自治労会館に営業所を置いたのは、近所で、たまたま部屋が空いていたから」と全面否定した。

*よど号グループに合流した「ナゾの人物」小川淳氏。(右端)1982年、ウィーンで撮影。中央は土井たか子元社会党委員長。
出国から3年後、福留さんから東ベルリン消印の手紙が実家に届いた。彼女が知るはずのない4ヵ月前の従兄弟の結婚式のことが書かれていた。94年には実家に関西なまりの男の声で「娘を帰国させたかったら4千万円用意しろ」との脅迫電話がかかる。背後に北朝鮮、もしくはよど号グループの協力者が動いたとみられる。
「救う会高知」の上野一彦幹事は、「貴美子さんを羽田から送り出す人間と、香港あたりで受け取る人間がいたのではないか。モンゴルに行けると騙したのは北朝鮮直結の『裏の人間』だろう」とみる。
福留さんは80年3月に日本に入り、都内に姿を現す。この時点で一児の母(翌年に2人目を出産)、逃げようにも逃げ出せなくなっていただろう。4年前に山手線の駅で見送ってくれた横浜市内の知人宅に2泊した。彼女は昔の仲間たちと居酒屋で飲み、高知に戻っていたAさんと電話で話した。
北朝鮮にいたことなど露とも知らないAさんが「元気?」と聞くと、「元気だよー」「大阪に寄って、それから田舎に帰る」
新横浜駅で新幹線に乗る彼女を横浜の知人が見送った。しかし、帰郷することもなく6月、伊丹空港から出国。「高知に帰るつもりだったが、途中で関係者に取りおさえられた」との情報もある。
この時期、「妻たち」の多くがおこなった日本潜入活動の一環だったことは間違いない。が、この時に昔の友達に会ったことなどが後に「規律違反」と厳しく批判されたようだ。
'06 故郷は帰りを待っている 失踪から、はや30年。支援団体の告発状を警察が受理し、真相究明と救出の動きが本格化した。福留さんが生まれ育った地域を訪ねた。ひっそりと、沈むような山里だった。でも、待ちわびた両親は、もういない。
漁船で逃亡図り拘束?強制収容所に送られた?辺境の地で日本語教師か
八尾元店主の著作によると、夫の岡本はリーダー田宮と活動路線をめぐって確執を深め、生活が荒れ始めた。ある夜、夫妻はロープで体を縛られ、労働党のワゴンでどこかに運ばれた。「再教育」を何度も受けた。「2人は招待所にいたが、近くの漁師に酒を飲ませて酔わせ、漁船を奪って逃亡を図り、北朝鮮当局に捕まった」別のよど号メンバーは八尾元店主にそう話したという。
00年に脳梗塞で倒れたが、一命を取りとめ、回復途中の高沢氏は言う。「95年に田宮は、岡本はいま連絡のつかないところにいると言った。彼とは長い付き合いで、2人は強制収容所にいるんだなとピンと来た」
奇妙な情報もある。日朝首脳会談の半年前、さる国会議員の元に届いた手紙。差出人は別の国会議員の元秘書で、詐欺罪で実刑判決を受けて獄中にいた。手紙には、この人物が独自ルートで確認したという拉致被害者の名前が明記され、そこに「福留貴美子」の名前がある。
「88年に逃亡を企てたが拘束され、収容所に入れられた。私が保証金を払って助け出し、現在は地方の外国語学校で日本語教師をしている」この差出人の居場所はわからない。
「騙されて北朝鮮に連れて行かれた福留さんは、欧州でウソの仕事を持ちかけられた有本恵子さんの拉致とよく似ている」。集会を開くなど「福留問題」を引っ張ってきた「救う会神奈川」の川添友幸会長は、早急な拉致認定を訴える。
06年2月、北京で行われた日朝協議で、日本側は三十数人の安否確認を北朝鮮側に求めた。その中には、福留貴美子さんの名前がある――。
終わり






