地上の楽園は独裁国家だった。帰還事業で北へ渡った9万3千人の夢と絶望。「日本に帰してくれ」の一言で送り込まれた所は・・・。飢餓、脱北、日本への思い。北朝鮮に向け帰還事業の真実が発信された。
*'06 12/17 TBS「報道特集」(1)北を揺るがす“風船メッセージ”
http://aoinomama13.seesaa.net/article/33070875.html
続き
【司会者・田丸美寿々さん】(スタジオにて)
「先ほどの特集の最後で、横田滋さんが北朝鮮向けの短波放送の番組『しおかぜ』の公開収録に参加された様子をお伝えしましたけれども、昨日まで続きました北朝鮮人権啓発週間(12月10日〜16日)の一環として行われたこの公開収録、この場には過酷な運命に苦しんできた、こんな女性たちの北に向けた悲痛な思いも訴えていました。」
北朝鮮 絶望の帰還事業
「在日朝鮮人帰国者、日本人妻の皆さん、北朝鮮に船で渡って行かれてから、今日まで何十年も大変なご苦労をしてこられたと思います。」(東京・千代田区12月10日)
【ナレーター】
北朝鮮向け短波ラジオ放送「しおかぜ」の公開録音。普段は拉致問題に関する放送をしていますが、この日は特別でした。
【日本人妻・斉藤さん】(「しおかぜ」収録より)
「私は斉藤といいます。今日本には私のような日本人妻や帰国者、またその子どもたちがたくさん実は今戻って来ています。」
【ナレーター】
かつて帰還事業で北朝鮮に渡り脱北した在日朝鮮人と日本人妻による、初めての呼びかけが行われたのです。
【在日朝鮮人帰国者】(「しおかぜ」収録より)
「『北朝鮮は地上の楽園だ』『病気になっても一銭もいらない』『家も仕事も全部用意してある』、こんなウソに騙されて多くの在日同胞と日本人妻たちが、希望に満ちて北朝鮮に行きました。」
【ナレーター】
彼女たちはみな北朝鮮で40年以上暮らした後に脱北しました。厳しく糾弾される北朝鮮への帰還事業。その実態とは―。
(映像) 「希望の祖国へ」(帰国船が出るまで 新潟での四日間 特集)
これは1959年12月(14日)、初めての帰還事業を取材したドキュメンタリーです。
(ナレーター)
「帰国者たちにとって日本最後の夜が訪れました。食堂での最後の夕食には、ささやかながら酢豚などの特別のごちそうがつけられ、帰国者たちの食膳を飾りました。」
日本各地から新潟にやって来た帰国者たち。赤十字センターで船を待ちます。
(ナレーター)
「この夜、帰国者たちは興奮してかなかなか床に就こうともせず、各部屋では遅くまで祖国の民謡や踊りが続けられました。」
(在日朝鮮人帰国者・男性)
「我々の子どもに対してはね、何一つ将来の見込みがないという意味で、早く帰って教育をさせると。」
(日本人妻)
「胸いっぱいでね、詰まったような・・・、すみません・・・、ありがたいような、悲しいような・・・」
1959年から始まった帰還事業は、多くの議員やマスコミなどの支持を受け、1984年までにおよそ9万3,000人が北朝鮮に渡りました。このうち、1,800人あまりは日本人妻でした。しかし、みな厳しい現実に直面する事になります。
榊原洋子さん。在日朝鮮人として1961年に北朝鮮に渡りました。
*写真は「映像とシンポで語る北朝鮮」の集会('06 12/10彩の国さいたま芸術劇場)で撮影したものです。
【在日朝鮮人帰国者・榊原洋子さん】
「日本にいる時に『朝鮮のリンゴは大きくて真っ赤でおいしい』という話を、耳にタコができるくらい聞いたんですね。」
【ナレーター】
しかし、北朝鮮への帰国船に乗っている時にもらったリンゴは・・・。
【在日朝鮮人帰国者・榊原洋子さん】
「自分が想像していた朝鮮のリンゴとまったく違うんです。もう小さくてね、虫(食い)があって。とにかくみすぼらしいというかね、リンゴが。その時からちょっと何か『裏切られた』というかイメージが違うとね・・・。」
【ナレーター】
そして船が到着した清津(チョンジン)の景色は・・・。
【在日朝鮮人帰国者・榊原洋子さん】
「とにかく灰色の都市というか・・・、灰色、うん・・・、鮮明じゃなくてぼんやりしたようなね・・・。」
♪「夢にも懐かしい在日同胞たちよ」♪
【ナレーター】
港には歓迎の歌が流れていました。
♪「共和国公民になった栄誉をいだき、燃えるように懐かしい母なる祖国、社会主義楽園は、その広い胸で、あなた方を温かく迎え入れん」♪
【在日朝鮮人帰国者・榊原洋子さん】
「ウソです。今ももう北朝鮮はウソ、ウソ、ウソの塊です。歌いたくもないです・・・。」
【ナレーター】
これは初回の帰還事業で北朝鮮に渡った在日朝鮮人を取材した映像です。(1960年1月26日放送)音声は入っていません。
帰国者を出迎える金日成首相(当時)。タバコの火もつけます。次々と製鉄所や工場を見学する帰国者たち。生活必需品が完備されたアパートも撮影されています。ピアノもありました。しかし、本当にこんな生活ができたのでしょうか?
惣菜を盛り付ける仕事をしているのは、日本人妻の斉藤さんです。1961年に在日朝鮮人の夫や娘と共に北朝鮮に渡りました。2001年に脱北して現在は日本で暮らしています。彼女は45年前に北朝鮮清津(チョンジン)の港に着いた時の印象をこう語ります。
【日本人妻・斉藤さん】
「やはり服装とかそういうのを見たら、ちょっと日本とは違うなというのは・・・、子どもは下は丸裸で、そんなの見たら本当に朝鮮ってこんな国だったんだなぁと思ってね。日本人の奥さんたちも『帰してくれ』ってもう泣く人もおりましたよね・・・。」
【ナレーター】
帰国当初、斉藤さん一家は3人家族でしたが、配給は小麦粉とわずかなコメだけ。水道も通っておらず、「川の水をバケツで運ぶ毎日だった」といいます。
【日本人妻・斉藤さん】
「自分で一人でもね、まぁ泣いた事もたくさんありましたよ。」
【記者】
「帰りたかったでしょう?」
【日本人妻・斉藤さん】
「ええ、まぁ。それからだんだんとね、もう生活に困って、帰りたいっていうよりどうやって生きていくかな・・・というその気持ちがもう大きいから、帰りたいっていう気持ちよりもその方が大きかったですね。」
【ナレーター】
困窮する生活。斉藤さんは日本にいる両親に対し、何十年も手紙で援助を求め続けました。こんな内容でした。
(日本の両親への手紙)
「お母さん、本当にお許しください。昨年に送ってくださったお金を受け取り、本当に感謝しています。お母さん、本当にお許しください。10万円だけ何とかしてください。本当にこれだけです。最後の頼みです。こちらは日本と違って本当に苦しい生活です。それから古着を送ってください。子どもたちが着た古着を送ってください。靴下、白いズボン、大きいのを頼みます。ワンピース、スカート、何でも一番安い物でよいです。ネカチーフ、男女の着る下着、たくさん欲しいです。ボールペン、夏の服・・・。ではこのへんで、さようなら。」
【ナレーター】
在日朝鮮人や日本人妻が最初に到着した港・清津(チョンジン)。ここで「船から降りる事を拒否した人が過酷な施設に送られた」と証言する人がいます。
北朝鮮 “オリの中に兄が”
【在日朝鮮人帰国者・千葉優美子さん】
「『日本に帰してくれ』というその一言で49号病院に送った、本当に異常なところです・・・。」
*写真は「北朝鮮人権大使サミット」('06 12/12国際協力総合研修所・東京新宿区)で撮影したものです。
【ナレーター】
千葉優美子さん。1963年に北朝鮮に渡った在日朝鮮人です。彼女は幼い頃、一緒に清津(チョンジン)に到着した兄の事について、両親からこう聞かされていました。
【在日朝鮮人帰国者・千葉優美子さん】
「清津港に到着するやいなや兄が『日本に送り返してくれ。こんなところでは暮らせない。何かおかしい、このまま帰る!』とものすごく言い張ったそうです。それで彼らは、今考えたら保衛部の人たちでしょう、そのまま『49号病院に送った』という事です。」
【ナレーター】
千葉さんによると、「49号病院とは精神病の患者を収容する施設」だといいます。49号といえば、北朝鮮が横田めぐみさんが自殺した場所と発表した49号予防院が頭に浮かびますが、千葉さんが訪れたのは全く別の施設です。この施設にいる兄に会えたのは、北朝鮮に帰国して5年後の事でした。
【在日朝鮮人帰国者・千葉優美子さん】
「ここにこうして塀があります。塀があるんです。ここの受付室で父と私たち4人がここを通りました。」(絵を描いて説明)
【ナレーター】
父親・母親・姉と共に施設に向う幼い千葉さん。受付で父親が証明書のようなものを見せると、担当者が電話で呼ばれました。そして家族4人は案内されました。施設内で見たもの、それは―。
【在日朝鮮人帰国者・千葉優美子さん】
「こう円形になっていました。全部見えます。全部見えるんです。隠す物がないからです。ここに人がいました。人がいたんです。」
【ナレーター】
家族が見たもの、それは円形の建物。そこには、鉄柱や鉄条網で囲われた檻(おり)がありました。多くの人の中から、担当者が一人を呼び選び出しました。
【在日朝鮮人帰国者・千葉優美子さん】
「門を開けて人が入って行って、兄をみんながいるところから、こうしてこうして避けながら連れて来ました。その兄は、男なのか女なのかはっきりしないほど髪が長かったんです。その時、私が恐怖で震えたのが、赤いもの、トマトのようなものでした、兄がそれを拾って、汚物がついているそれを食べているのを見て怖くなり、母をぎゅっとつかんでいたんです。」
【ナレーター】
担当者が連れて来た兄とおぼしき髪の長い男性。「汚物のついた赤いものを食べていた」といいます。幼い千葉さんは恐怖に震え、母親にしがみつきました。
【在日朝鮮人帰国者・千葉優美子さん】
「その髪の長い人が、ふらーっ、ふらーっとしながら、口がこんな感じだったような気がします。私の記憶ではほお骨だけが目立ち、下半身はドロドロに汚れ、靴下は履いていませんでした。父はこうしてこうして兄をこうして見て、何も言いませんでした。」
【ナレーター】
父親がその男性の顔を確認しました。「何も言えなかった」といいます。そして後に兄の死亡通知が届きました。
【在日朝鮮人帰国者・千葉優美子さん】
「『4〜5年の間に、人間がああいうふうに精神病になったんだなぁ』と母がそう言いました。『あんなにキラキラしていた若者だったのに、何年かの間に本当に精神病になったのだ』と・・・。」
【ナレーター】
北朝鮮に帰国した人々が話す過酷な体験。北朝鮮の実状は日本にもある程度知らされていたにもかかわらず、帰還事業はその後も続きました。裏側で何があったのでしょうか?
帰還事業と北朝鮮の意思
【ナレーター】
明治大学の川島高峰助教授。外務省に対して情報開示請求を行って帰還事業に関する文書を入手、研究を続けています。
【明治大学・川島高峰助教授】
「これは外務省の資料です。私が開示請求をして出てきたもので、これの中に不参者(実際には帰還しなかった者)のグラフがあるんですね。」
【ナレーター】
これは帰国する意思を示してリストに登録した人と、実際に船に乗って帰国した人の数を示したグラフです。その差はある時期からひらきました。つまり、登録したものの、実際には帰らなかった人が激増したのです。
【明治大学・川島高峰助教授】
「(1961年の)第70次あたりから、ものすごいこれだけの差ですね、ちょっとグラフでざっと読んでも。例えば、第70次(の帰還事業)は、1,400人超を予定していたんですが、実際に乗船した人は450人くらいだったわけですね。」
【ナレーター】
帰還事業にあたっては、日本各地から新潟までの特別列車が用意されていました。しかし、船に乗らない人が増えるにつれて―。
【明治大学・川島高峰助教授】
「特別列車を用意するわけじゃないですか、もうガラガラなんですよ。1,200人の人間が乗ると思って電車を用意しているところに、300人とか400人しか来ないと列車がガラガラになるわけですよ。こうなってくるとやはり色々な意味でですね、『公で行う事業としてもう少しやり方を変えた方がいいんじゃないか?』という声は当然出てきますよね。」
【ナレーター】
帰国者数の減少を受け、帰還事業の見直し論が浮上しました。しかし朝鮮総連は反発します。当時の警察庁の資料(1962年)には、朝鮮総連幹部の発言が記されていました。
(朝鮮総連幹部の発言)
「帰国問題は、朝鮮総連組織と公民が共和国の誇りと国際的威信を高めるために努力しなければならない問題である。金日成首相の呼びかけにある『火の中・水の中を問わず貫徹する』という態度で協力に立ち上がること・・・。」
【明治大学・川島高峰助教授】
「帰国(帰還)事業というのは、まさに文字通り事業であって、その事業の継続に意味がある。『事業を継続する事に朝鮮総連の、いや共和国の誇りと国際的威信があるんだ』と、もうこれは性格が変わっていますよね。」
【ナレーター】
帰還事業に陰を落とす北朝鮮の国家的戦略。帰国者数の減少に反比例して持ち込まれる荷物の量は増え、1世帯4トンという家庭もありました。川島助教授は「帰還事業が物流ルートとしての側面も持ち始めていた」といいます。
一方、日本の治安当局は別の観点から帰還事業に懸念を示していました。
(外務省の資料)
「現行の帰還船は、スパイ活動の場に使われる疑いもあるなど、我が国にとって好ましくない傾向を帯びると共に、帰還希望者数も本年(1966年)6月末現在で4,000名程度となっている。」
【明治大学・川島高峰助教授】
「じゃあ、そのスパイ活動は何だ?何?ってとこまではわからないんですが、そういう治安上のかなり重大な案件があったんじゃないかな、というふうに僕は考えます。(この時期)日本で何らかの物資調達をして、いわゆる不法出入国がらみですね、そういう治安事件というのはもう出てきているわけですよ。」
*川島高峰政治学研究室
http://www.isc.meiji.ac.jp/~takane/
【ナレーター】
1959年に始まった帰還事業は延長を繰り返しましたが、日本側は1967年の11月をもって打ち切りを決めます。これに対し、朝鮮総連は反対闘争を展開。3年半後に帰還事業は再開され、1984年まで続きました。
北朝鮮帰国者 苦難の人生
【ナレーター】
一方、北朝鮮に渡った帰国者たちを待ち受けていたのはさらに過酷な運命でした。在日朝鮮人の帰国者・榊原洋子さんはこう言います。
【在日朝鮮人帰国者・榊原洋子さん】
「はぁー・・・、あの時、言葉で表せません。毎日のように人が死んでいくんですよ・・・。」
【ナレーター】
あの時―。それは1990年代中盤に起きた北朝鮮の食糧難です。「300万人が死んだ」と言われています。
【在日朝鮮人帰国者・榊原洋子さん】
「飢え死にです、飢え死に・・・。飢えて死んでしまうんです。道を歩いていても死んだ人がいるしね。駅前で食べられなくて、また凍って死んでしまう人もいっぱいいるし。『どうしよう、明日も食べる物がなくて・・・』とマンションの前でやせ細った姿で心配していた人が、もう2日過ぎて死んでしまうとかね・・・。」
【ナレーター】
食糧難と相前後して、多くの北朝鮮住民が脱北し始めます。2003年2月、榊原さんの息子が脱北し韓国に入りました。
【在日朝鮮人帰国者・榊原洋子さん】
「その時、8月3日に選挙があったんです。で、朝鮮では選挙に参加しなかったら政治犯ですよ。政治犯に仕立てられるんですね。だから、その日(投票日)には(息子は)必ず帰って来ると思っていたんです。でもその日に帰って来なかったんです。それで驚いたんですね。『ああ、これはここにいないんじゃないか?朝鮮の中にいないんじゃないか?』という心配もしたんですけれどもね・・・。」
【ナレーター】
投票する金正日総書記。(2003年8月3日)選挙の日にも榊原さんの息子は帰って来ませんでした。息子が韓国に行った事が知られると、北朝鮮では厳しい処罰が待っています。榊原さんは脱北の決意を固めました。
【在日朝鮮人帰国者・榊原洋子さん】
「ここら辺にね、長屋があったんです。長屋の2番目か3番目くらいのこの家で2〜3時間待たされてね・・・。」
【ナレーター】
国境の川、豆満江(トゥマンガン)の傍にある長屋で待たされた榊原さん。脱北ブローカーに案内されて外に出ます。そのまま川の方まで歩くと、警備の兵士が2人いました。すでに賄賂が渡され、脱北させるよう話がついていました。ズボンや靴を頭に乗せて裸足で川を渡ります。「11月の川の水は冷たかった」といいます。
【在日朝鮮人帰国者・榊原洋子さん】
「足を踏み入れたとたんにね、くっついてしまうんですよ。全部凍って・・・。」
【ナレーター】
川を渡り切り、足を石に乗せるとそのまま凍ってくっついたといいます。榊原さんはマフラーを外して石の上に敷き、足を拭きながら川原に上がりました。そしてそのまま無事に脱北。後に日本に入る事ができました。
一方、日本人妻の斉藤さんは、2回脱北しています。最初は1998年、中国から電話をし、親戚に援助を求めるためでした。
【日本人妻・斉藤さん】
「トラックのタイヤの中のチューブだから、チューブの大きさっていったらこのくらいあるよね。2人入ってもまだ入れるような状態だから、ものすごく大きいんです。」
【ナレーター】
斉藤さんは、タイヤのチューブを浮き輪にしました。「ブローカーに紐で引っ張ってもらい、向こう岸まで渡った」と言います。斉藤さんは親戚に電話をかけてから北朝鮮に戻りましたが、2001年2月に今度は凍った川を歩いて2度目の脱北、その後日本に入国しました。
北に発信 “生きのびて”
【ナレーター】(東京・千代田区 12月10日 韓国YMCA)
帰還事業で日本に渡った在日朝鮮人や日本人妻。彼女たちが北朝鮮向け短波ラジオの収録に臨んだ際、口をそろえて訴えた言葉があります。
【日本人妻・斉藤さん】(「しおかぜ」収録より)
「皆さんも何とか日本に戻れるよう、戻れる日まで頑張ってください。生き延びてください。」
【在日朝鮮人帰国者・榊原洋子さん】(「しおかぜ」収録より)
「あなたちを救い出すために闘っている人たちがいると信じて、勇気を持って生きてください。」

【ナレーター】
彼女たちを支援する「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」三浦小太郎事務局長はこう話します。
【守る会・三浦小太郎事務局長】
「何よりもですね、『生きる希望を与える』という事です。こちらに来た人たちが『北朝鮮に残された人たちを救うために努力しているんだ』と『こうしてメッセージを出しているんだ』と伝える事で、閉鎖社会の中に少しずつでも情報を入れていく、意識を変えていくという役割があると思います。この放送が一人の耳に入ればですね、私はその一人に力を与え、その一人の人が他の人に伝えてくれただけでも私は成功だと思います。」
【ナレーター】
帰還事業に際して在日朝鮮人や日本人妻の多くは、朝鮮総連などから「3年もすれば里帰りができる」と説得されました。しかし「日本に戻るには脱北以外に道がない」という人がほとんどでした。日本人妻の斉藤さんは、こう訴えました。
【日本人妻・斉藤さん】(「しおかぜ」収録より)
「日本では今、北朝鮮にいらっしゃる皆さんの里帰りを実行させたいと頑張っております。朝鮮にいらっしゃる日本人妻、それに帰国者の人、絶対に気を落とさないで頑張ってください。私はね、日本に来てよかったと思っております。」
北朝鮮帰還事業 その真実
【司会者・田丸美寿々さん】(スタジオにて)
「さて、スタジオには取材をしました報道写真家の山本将文さんに来ていただきました。よろしくお願い致します。これまでにご覧いただいたように9万人を超える人たちが帰還事業で北朝鮮に帰った、で、地上の楽園どころか、まさに生き地獄で、しかも帰るに帰れない状況に置かれている日本人の方もたくさんいたんですねぇ。」
【報道写真家・山本将文氏】
「そうですね、帰国者9万3,000人の中にですね、1,800人の日本人妻の他に200人の日本人夫がいます。そしてその配偶者を含めまして日本国籍を有した帰国者合計が6,600人です。」
【司会者・田丸美寿々さん】
「はぁ、そんなに・・・。」
【報道写真家・山本将文氏】
「大量の日本人が北朝鮮に渡って行っているわけですね。」
【司会者・田丸美寿々さん】
「脱北できた方はほんの一部で、まだまだたくさんの方が帰りたがっていると。明日から6か国協議、本格的に始まりますが、主に核の議論になりそうなんですが、日本の対応に望む事はございますか?」
【報道写真家・山本将文氏】
「そうですね、拉致問題も非常に大きな問題です。と同時にこの帰国者問題、これも同様に大きな問題です。この6か国協議の場でも、日本政府は北朝鮮に対して強く要求していくべきだと、訴えていくべきだと思います。そしてですね、日本人が北朝鮮で救いを求めているのであれば、日本政府は彼らを保護する義務があると思います。邦人の保護、これは日本の憲法にも謳われています。」
【司会者・田丸美寿々さん】
「はい、本当にそうですね。邦人の命と安全を守るのは日本政府の責任ですよね。ありがとうございました。」
終わり
(ディレクター 砂沢融さん、富岡裕一さん、吉田豊さん)
*皆さん、最後まで読んでくださってありがとうございました。(*^^*)/~~
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