2007年01月24日

1/14 神奈川県民集会 有本嘉代子さん

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*講演内容を文字化しました。聞き取りに間違いのある可能性もございます。どうぞご了承ください。

【拉致被害者有本恵子さんの母・嘉代子さん】
 皆さん、こんにちは。ご紹介にあずかりました有本でございます。本当にあの、先ほど三浦小太郎先生がおっしゃったように、1988年の9月6日に北海道から電話がありまして、「実はお宅より3年前に行方不明になりました息子から手紙がまいりまして、その中に『恵子さんと松木薫さんとご一緒に生活をしている。で、そのヨーロッパにいた私たちは事情あって、北朝鮮で3人が力を合わせて暮らしております』」というような内容でした。

 先生がおっしゃったように、「助けてください」という気持ちで有本と共に、このままここで命を果てるような事があったら、1983年に恵子は行方不明になりまして、88年9月6日にその連絡がありましたので、その5年間というものは、私どもはもう外国で起こった事であるし、「帰る」という手紙が来たけど、何か事故に遭って亡くなってしまったんじゃないかな、という思いで家族たちは5年間、もう「諦めよう、諦めよう」として暮らしておりましたので、恵子の事は意識的に家族は言葉には出さなかったけれども、触れないようにして5年間暮らしてきました。

 それで5年目にやっとその電話がありました時は、本当に私も「ああ、よかった、生きていた」という気持ちはありましたし、それとやはり北海道の方もかなり興奮して声もうわずっていらっしゃいました。そういう思いでそれを受け取ったんですけれども、「北朝鮮がどんな国であるか?」という事は、その時は認識しておりませんでした。本当に「ああ、無事でいてくれた」というその思いだけで一杯で、やはり運動して色々聞く間に「大変な国だな」とわかりましたんで、外務省の方に「これは伏せとく方がいいよ」と言われ、私たちは黙ってその一報を伏せておきました。

 一番最初1988年、北海道の方が司法書士をしてらっしゃいますので、非常に政治の事も詳しかったもんですから「北朝鮮とパイプがあるのは社会党だけですから。近くに社会党の議員さんがいらっしゃったら、そこへ頼みに行かれるのがいいですよ」と「私も早速、今日は社会党の議員さんのところに行ってお願いしようと思っています」という事をお母様おっしゃいました。

 それでたぶんその足で行かれたんだろうと思います。午後になりましたらね、「北海道の社会党です」言うて電話がかかってきたんです。「先ほど、石岡さんって方からお電話があったと思いますけれども、先ほど聞いた事は絶対に口外しないでください」っておっしゃったんです。

 でも、私は警察には届けを出しておりましたのでね、外国で起こった事ですけれども。一応県警の方へは届けておりましたので、色んな問い合わせが来るんですね、「こちらちょっと聞いてください」「ちょっと来てください」って。そうですね、4回くらい行きましたかね。そうしましたら「身長はいくらですか?」「足はどのくらいのもん数測りますか?」とか「どういうものを好んで着られますか?」とかいう事を聞かれるんですね。その都度に「やはりこれはひょっとしたら、外国で事故があって亡くなられた人の照会違うかな?」と思いましたので、2回目ぐらいに行った時だと思うんですけども、「これひょっとしたら事故があって亡くなられた人の照会ですか?」って聞きましたら、「そうです」っておっしゃったものですから、「それでしたらもう結構ですので」って言った記憶があります。

 それでまぁ結局そういうような感じで5年間暮らして、(北海道に届いた手紙で)初めて消息がわかりまして、土井たか子さんとこに行ったんですけどもね、土井さんとこは西宮ですから神戸から近いんです。だからすぐに行きましたけれども、秘書の方がいらして「お返事します」って言うたまま全然連絡なかったもんですから、主人がそれから色んなところであっちで聞きこっちで聞きするうちに、「やはり政権を執っているのは自民党だから、これは自民党にお願いせないかん」という事で、安倍先生のお父さんの晋太郎さんが幹事長をしてらっしゃる時だったと思います。その時に「次期総理はたぶん安倍さんだ」という噂が立っておりました。

 「やはりこういう事をお話しするのはトップのところに行かないかん」という事で、竹下登さんの所を連絡しようとしたんですけど、議員会館の中に事務所がなかったもんですから、安倍先生の所へ行ったんですね。そうしましたら、その時の秘書の方がいらして「じゃあ私が」と、「一度来てですか?手紙を持って来てですか?」って言われますので、手紙を持って行きまして、本当に半日がかりで警察庁それと外務省と回ってくださったんですけどもね、警察庁にまいりました時はやはり1時間くらいはとって、向こう(ヨーロッパ)でいなくなった時の経緯をずっとお話したんです。それをみなお一人の人がひかえて書いておりました。

 それからおっしゃるのには「これは国内で起こった事ではないので警察ではちょっと対応しかねる」という事で、外務省へ連れて行ってくださいました。で、外務省は一言、もうあの時分の対応は今もはっきりと覚えておりますけども、ここに外務省の方がいらしたら申し訳ないんですけど、本当に冷たかったですね。もう「国交がないです」のその一言です。「それだったら仕方がないでしょう」とかも言われましてね、後は赤十字しか行く所がないんだけども、それに行ってたら今日中に帰れないから、「一度帰られてまた改めて来られますか?」言われたのでまた改めて、1ヶ月も経っていなかったと思います。最初に行ったのはたぶん9月の末頃じゃないかなと思うんですけど、二度目は10月に入って行ったと思うんですね。それでそこでお話して、今度は二人で同じようなコースを回ったんですね。その時に外務省が言われるのには「これは非常に難しい国ですので、もしこの事が明らかになった場合はお嬢さんに被害がある場合がありますので、やはりこれは黙っておかれる方がいいですよ」と言われたので、私どもも黙っていました。

 もうその時点では「北朝鮮って大変な国だな」という事がわかりましたんでね、それで黙っておりまして、1990年の末に、いっぺんにこうマスコミの方が押し寄せて来られたんですね。「どこで聞いて来られたんですか?」って聞いたら、その時おっしゃらなかったんですけれども、後で警察と外務省から聞いてわかったんですけども、1990年に第一回目の訪朝で、金丸信さんが田辺誠さんと一緒に北朝鮮に行かれたんです。後に「金の延べ棒が出てきた」とか、そういうような事を聞きましたけれども、やはりきちっとした交渉をしなかったんです。

 その前に私の選挙区で出ていらっしゃる議員さんにお願いして「何とか行かれるまでに金丸さんに会わせてください」って主人がお願いに上がったんですけれども、それも叶いませんでして、結局北朝鮮に行って何も言わずに、ただあの時海部さんだったと思うんです、総理が。海部さんの親書だけを持って行かれて「戦前戦後の補償をします」いう約束をして帰って来られたんです。

 そういう経緯で、結局この問題は本当にきちっとした行動をなされなかったいうのも、やはりどこからか、報道関係の人にも「圧力をかけたらいかん」と言ってますけども、圧力がかかったのか、政治家の方・外務省・マスコミ、全部これをこぞって隠蔽したために、こんなに長い事かかったと思っております。

 それで、特定失踪者の(ご家族の)方もこの会場に来ておられますけども、この人たちも本当に大変な思いをしていらっしゃると思います。わからなかったんだったんだろうと思います。家族が突然消えてしまうんですからね。国内でも本当にいなくなるはずがない人が突然消えてしまっているから、ご両親にしてもごきょうだいにしても「どうなったのか?」本当に全然わからないまま今までこられたと思います。

 私の場合もやっと横田めぐみさんの事を、西村眞悟議員が国会の予算委員会の時に言うてくださって、初めて横田めぐみさんの事が明らかになって、これで初めてちょっと動いたんですね。それまでにも私は早い時期にね、震災のあった年ですから1995年に、お一人だけ一生懸命にこの問題に取り組んでいたマスコミの方があるんです。その方は同じ業者の方に「こういう問題がある」言う事を聞かれてね、直接私のところへ来てくださったんです。その時にここにいらっしゃる高沢さんも二度目にはその方と一緒に来てくださいました。

 色々その関係のお話も聞いたんですけどもね、その時には「よど号の人が拉致した」いう事はまぁ聞いておりませんし、それは思ってもおりませんでしたけれども、皆さんもご存知の通り、総理が北朝鮮に行かれた年の2002年の3月12日によど号犯妻の赤木恵美子っていう人が日本に帰って来て、八尾恵さんが裁判の場で証言者として出られたんですよね。その場で拉致を認めて、「私は恵子さんを北朝鮮の工作員の手に渡して北朝鮮へ送り込んだ」いう事を法廷の場で言ってくださったんです。

 だから今ここにいてらっしゃる特定失踪者家族の方も本当に不安だろうと思いますけれども、私どもも1997年3月に家族会を結成しました。それで一緒に動き出したんです。めぐみさんの場合はすぐに拉致と認めました。でも私どもだけは全然認めてなかったんです。だけどその1997年に家族会ができて、2002年の3月12日にあの方(八尾恵さん)が法廷で証言されて、その前日に、どういうわけなのかその前日に政府が初めて「拉致である」という事を認定したんです。だから、どういうわけでそうなったのか?私もやはりあの事が、実際に裁判で証言なさったからだと思いますけれども、それで明らかになって、初めて「拉致家族である」という事が認定されたんです。

 もうそれからは皆さんがご存知の通りの運動が始まって、署名活動とか色々。2002年以降は本当に報道の方もきっちりしてくださいますので、それ以降に皆さんがわかるようになってくださったんです。だからそれまでは皆さんもそんなにこの拉致問題ご存知なかったと思うんです。総理が北朝鮮に行かれて、5人の人が10月15日に帰って来て初めて「ああ、拉致はあったんだな」とみな関心を持ってくださって。翌年の5月に東京の有楽町国際フォーラムで全国大会がありました。それまでは大体、日比谷の公会堂だったら2000人ぐらいですかね、それが初めて6000人入る所で、「そんなに人が来てくださるかな?」って救う会の方も心配しもって、でも開いてくださって、その6000人入る所に1万人以上の方が来てくださったんです、全国から。

 その時私たちもこの演台に上がりまして、緞帳がパッと上がった時に、あの時の感激は今でも忘れる事ができません。本当に「こんなに大勢の方が関心を持って来てくださった」と思って、「日本人はやはり日本人だ、すばらしいな」と思いました。(拍手)

 私は大正生まれですから、教育が違いますね、今の方と。だから「日本人はすばらしい」「日本人はこんなに立派な事がある」いう事を学校でずっと教えていただきますし、家では親たちが言っていましたから。「私は日本人に生まれてよかった」といつも思っていましたけど、あの時「ああ、やはり日本人はすばらしい。これを忘れずにいてくださった」いう事と、若者たちがたくさん拉致されて、本当に自由を奪われて、長い間大変な目に遭っていますけれども、「この子たちがこの日本の国を目覚めさせてくれた」と思いました。本当にあの時の感激は今でも忘れる事ができません。

 それ以降は本当に皆さんが一生懸命に私たちに協力してくださって、行く先々で声をかけてくださるんです。今、こちらでも2〜3人の方が声をかけてくださいました。「頑張って下さいよ」「体に気いつけて、きっと帰って来られますから気をつけて頑張ってくださいね」って声をかけてくださいます。これが何よりの私たちの心の支えになっております。

 だから今ここにいらっしゃる特定失踪者家族の方も、やっと安倍政権になられて、安倍さんは本当ね、お目にかかった事なかったんです、ずっと。でもお父さんの時に私たちが寄せていただいて、その時からこの拉致問題という事は秘書をしながらずっと見てらしたんですね。だから一番に自分が総理になられた時に、教育問題、これは大変大事な事です、これと拉致問題は最優先課題という事にしてくださったんですから、「きっと安倍政権の時に私たちの子どもたちは帰って来れる」と希望を持って、きっと皆さん、国が認めている人だけ助けるという事は絶対しないと思います。

 「すべての人を返しなさい」いう事はきっちり言ってくださると思いますので、どうぞ皆さん、その安倍政権を支えてください。今ね、本当にマスコミがね、もう色んな方が安倍先生の足を引っ張ろう引っ張ろうとしていますので、本当に私は不安な気持ちで見てますけども、きっと解決してくださると信じております。

 皆さんと一緒になって、この日本の国民が連れて行かれているんですから、皆さんと力を合わせて助けてやりたいと思いますので、どうぞご協力くださいますようよろしくお願い致します。ありがとうございました。(大拍手)

*'06 2/26 TBS「報道特集」安倍晋三氏“拉致にかける思い”
http://aoinomama13.seesaa.net/article/14203249.html
*'05 12/22 国民大集会 有本恵子さんへお母さんのメッセージ
http://aoinomama13.seesaa.net/article/11130947.html
posted by あおいのママ at 12:32| 千葉 | TrackBack(0) | '07 1/14 神奈川県民集会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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