あおいのママは先日3月16日の東京集会のおり、ジャーナリストの小山唯史さんに、特定失踪者「秋田美輪さん」のお母さんがお作りになった「アクリルたわし」のおすそ分けをしました。その時に「以前に秋田さんのご自宅で取材をしたことがあります」と教えていただきまして、後日その記事と写真を送ってくださいました。転載の許可をいただきましたのでご紹介致します。小山さん、本当にありがとうございました。
*小山さん ありがとう
http://aoinomama13.seesaa.net/article/5289714.html
*母の手作り 「アクリルたわし」
http://aoinomama13.seesaa.net/article/11513446.html
【光文社『女性自身』2003年12月16日号(取材・文 小山唯史)】
秋田美輪さん「拉致認定」への遠すぎた道のり
「娘は入水自殺じゃない!」父と母は18年間、叫び続けた・・・・。
「ここが、もしあの子の第二の人生の始まりの地であったのなら、その人生のなかで、どうか無事でいますように」
秋田嶺子さん(69)は、毎年12月4日の前後、兵庫県の日本海側の海岸、弁天浜の砂浜に立って、心の中でこう祈る。傍らに立つ、夫の正一郎さん(71)も思いは同じだ。18年前の85年12月4日、女子大生だった娘・美輪さんは、忽然と姿を消してしまった。この砂浜にバッグと靴だけを残して。
遺体は上がらなかったが、警察は「入水自殺」と片づけた。だが、正一郎さんは当初から拉致ではないかと訴え、嶺子さんも娘の生存を信じ続けている。失踪当日自宅に掛かってきた電話、バッグに残されていた急行券──自殺とするには多すぎる謎。
船に乗せられ北朝鮮に連れ去られたのなら、この浜があの子にとっては、まがりなりにも新しい人生のスタート地点となったはず。その人生のなかで無事でいてほしい。いまごろどうしているのだろう。生きていれば、もう39歳。東京五輪の年、64年の生まれ。横田めぐみさんと同い年だ。帰国した曽我ひとみさんたちのように、かの国で結婚もしたのだろうか。
でも、目を閉じれば、浮かんでくるのは失踪した21歳当時の面影ばかり。野良犬を拾ってきて、「この犬(野良だから散歩のときも)アクセサリーにはならないわね」と笑いながら、チビと名づけて可愛がっていた。心優しい娘だった。小柄(155センチで43キロ)で、いつも控えめにしている子だったから、なおさら不憫さが募る。
真っ黒な日本海を望む初冬のこの浜辺。1年に1度、ここに、必ず足を運ばずにはいられない。あのとき以来、毎年ずっと。夫の運転する車で、はるばる徳島から夫婦2人通い続けている。
そして、今年もまた──。
◇ ◇ ◇
神戸松蔭女子学院大(国文科)の4年生だった秋田美輪さんは、その日、一番仲の良かった友人と学生食堂で昼食を取ったあと、正門前で午後1時頃別れた。友人は「ケーキ食べにいかへん?」と誘われたが、予定があったので断ったという。85年12月4日のこと。美輪さんの姿が目撃されたのは、それが最後となった。
そして翌日早朝、同じ兵庫県でも神戸とは正反対、日本海側の竹野町・弁天浜という浜辺で、美輪さんのバッグと靴が発見されたのである。バッグの中には、名前を記した学生証が残されていた。
「秋田美輪さんというのは、おたくのお嬢さんですか?」警察からの突然の連絡に、母・嶺子さんは、自宅(兵庫県川西市=当時)から、列車を乗り継いで現地に急いだ。損害保険会社の管理職だった父・正一郎さんは単身赴任先の徳島市から駆けつけた。
2人が到着したときには、もうヘリコプターや巡視艇、ダイバーや消防団が出動し、本格的な捜索が進んでいた。警察によると、バッグと靴は波打ち際1メートルのところに、きちんとそろえて置かれ、そこから海に向かって足跡もついていたという。
「女子大生、入水自殺か?」地元新聞は警察の判断に基づいて、小さくこう報じた。当時の記事の、古く黄ばんだ切り抜きを手に、正一郎さんは無念さを新たにする。
「私たちは、あの子が自殺するなんて信じられませんでした。失踪の少し前、『梅田(大阪)で若い男の人に、モデルにならへんかって声を掛けられたの』などと、父親である私にも気さくに話してくれるような娘でしたから。捜索に熱心に協力してくれた漁師さんの話でも、『ここは入水自殺は多いけど、入り江だから遺体はいままですべて発見されていますよ。見つからなかったケースは1例もない。これだけ捜して見つからないのは、違うのでは……』ということでした」
2日間の捜索が打ち切られたとき、正一郎さんは地元警察に懸命に訴えた。「拉致という線で、捜索をお願いできないのですか?」何年か前にすぐ近くで北朝鮮の工作船侵入事件があり、2人が強制送還されたということも地元で耳にしていた。
だが、警察の答えは、「お父さん、バッグが見つかっただけで物証もないし、目撃者もいませんからねえ。事件性があるとは考えられません。お気の毒ですが」と言うばかり。バッグも中身ごと「捜査は終わったから」と、その場で返された。
その中には赤い定期入れと財布、卒業の行事予定がメモしてある小さなノート、リップスティック、カバーの掛けられた文庫本(蒲原有明詩集)、「おぜんざい」とプリントされた小さな食券……。
いまも自宅に大切に保管してあるその黒い小さなバッグを手に、母の嶺子さんがポツリともらした。「ときどき、こうしてバッグを取り出したとき、フタを開けると、私にだけ分かる、あの子の匂いが、かすかに立ちのぼって、辛くなるんです」
美輪さんは父親の転勤先の岐阜で生まれた。小学校に上がる頃、一家は兵庫へ。「幼い頃は体は小さいのに駆けっこが得意な活発な子でした。中学では新聞部に入って学校近くの桂米朝さんのお宅に嬉しそうにお話を聞きにいったり、川西明峰高校(ヤクルト古田敦也選手の出身校としても知られる)ではブラスバンドに熱中していました。でも、年頃になってからは急におしとやかに、おとなしい性格に変化しましてね。大学のお友達に『ケーキ食べにいかない?』なんて自分から積極的に誘うのも珍しいことだったので、その友達も記憶に残ったようなんです。大学に進むときは考古学を勉強したいと。でも、主人が遠くに手離したくなくて、結局、地元の女子大に入ったんです」(嶺子さん)
◇ ◇ ◇
正一郎さんが当初から「拉致ではないか」と考え、18年間そう訴え続けているのにはいくつもの理由がある。美輪さんが最後に友人と正門前で別れたのは12月4日の昼。じつはその日の夜8時、母・嶺子さんは美輪さんから謎の電話を受けている。
「おかあさん、遅くなってゴメンね」その言葉で始まった電話は「きょうMちゃん(校門で別れた大学の友人)の下宿に泊めてもらうから。心配しないでね」と告げて切れた。
嶺子さんと次女の美輪さんは、当時、母と娘の2人住まい(父は単身赴任、長女は9カ月前に結婚)。夕食は毎日のように2人で仲良く一緒に作って食べた。帰りが少し遅くなったときは、自宅の最寄り駅の川西能勢口からでも、「これからバスに乗るところ」と、母を気づかってこまめに電話してくる娘だった。それなのに、今日はどうしたのかしら。夕食をとうに作り終えてしまった母は心配しながら電話の前に座り続けていた。夜8時、やっと電話が鳴った。美輪さんの声だ。
「あのときは、ホッとした気持ちが先に立ってしまって……。もっといろいろ聞けばよかったのですけど、『それじゃ、Mちゃんによろしくね』とだけ答えて、受話器を置いてしまったのです」
だが、翌朝突然、警察からバッグ発見の電話がかかってきたのだ。そんなはずはない!驚いた嶺子さんは、慌てて友人の家に電話したが、「美輪さんは泊まっていません。きのう泊まるという約束もしていません」という返事。全身から血の気が引いた。いったい何が起きたの?
「おそらく電話は銃でも突きつけられた状態で掛けさせられたのでしょう」正一郎さんは、そう推理する。家族が「娘が帰らない」と騒ぎだすのを遅らせるための時間稼ぎ。偽装工作だ。
「あら?ずいぶんシーンとして静かだったわ」嶺子さんが、娘から掛かってきた電話の背後が妙に静寂に包まれていたことに気づいたのは、娘の声に安堵し電話を切ってしまった直後だった。いつものような雑踏のザワメキとは違う。そのことが、一瞬、心に引っかかった。「弁天浜に駆けつけた日、私は夜、泊まっていた民宿からもう一度浜辺に出てみて、ハッとしました。真っ暗な闇の静寂に。あ、電話の向こうはこういう静けさだったと」。
正一郎さんは、バッグの中に残っていた急行券の謎を訴える。日付は12月4日。大阪から150キロ圏。900円だ。「これだと弁天浜の最寄り駅の竹野までは行けません。あと50キロ不足です。最初から200キロまで買っても千円で、たった100円高いだけ。財布の中には1万8千円も入っていたのに、なぜ半端な切符しか買わなかったのか」しかも、この急行券には改札を通った鋏も、車内で受けるはずの検札のパンチ跡もない。未使用状態なのだ。
「美輪は列車に乗ってないと考えることもできるのです。神戸近辺で拉致されて、自動車でどこかに連れ去られたのかもしれない」(正一郎さん)前の晩、雨が降ったというのに、バッグも靴も濡れた様子がないのも変だった。
しかし、警察はこれらの疑問に全く関心を示してくれようとはしなかった。
◇ ◇ ◇
事件直後の数カ月間、嶺子さんは時間のあるかぎり冬の列車に乗っていたという。
「大阪・神戸方面から山陰本線の竹野駅に向かうルートはいろいろあるんです。福知山線、播但線、京都回り……。その一つ一つを自分の足で実際に確かめずにはいられませんでした。徳島に転居することが前から決まっていましたから、それまでに、できるかぎり辿っておきたかったのです。どこかで美輪に出会うんじゃないかという思いもあって……。竹野駅に着いてみたら雪が1メートルも積もっていたこともありました」
徳島に転居したあと、正一郎さんは仕事先で「うちは娘1人」で通してきたが、嶺子さんは近所の人に問われて、「下の娘は神戸に置いてきました」と答えた。娘は1人きりだなんて一度だって思ったことはない。毎日、蔭膳を据えている。「でも、こんなに長くなるなんて……」。
自分が至らなかったせいではないか。2人で暮らしていた時代の出来事だから、来る日も来る日も自分を責めた。徳島大学に近い自宅は、歩いていても若い学生と出会うことが多い。そのたびに学生時代の娘とだぶってしまう。
毎年真夏の8月には、夫とともに県警本部の行方不明者相談会にも出席してきた。そこでは毎回100枚近い写真を見せられる。全国の漂流死体、変死体のうち、若い女性のものだ。何年目かでとうとう耐えられなくなった。私が見たいのは、美輪の元気な姿なのに。以後は夫が1人で出席してくれるようになった。
その相談会に訪れるたび、正一郎さんは18年間毎年毎年訴え続けてきた。「拉致として捜査してください」と。
そして時は流れ、昨年9月17日。あの衝撃の小泉訪朝。その2日後、正一郎さんは直ちに徳島県警に拉致事件としての再捜査を申し入れた。地元新聞の取材を受け、実名公開にも踏み切った。特定失踪者問題調査会(民間の支援組織)も今年9月末、美輪さんのケースを「極めて拉致の可能性が高い」と認定するに到っている。
さらに、11月、両親は兵庫県警に容疑者不詳のまま「国外移送目的略取誘拐容疑」で告発状を提出。拉致事件として初動捜査からやり直してほしいと求めた。11月27日には正一郎さんが上京、内閣府・家族支援室で中山恭子参与に訴えた。
「ぜひ政府による拉致認定をしてください」
今年、神戸は阪神の18年ぶりの優勝で沸いた。その同じ歳月を秋田さん夫婦は、悲しみと苦しみのなかで過ごしてきたのだ。でも、母は信じて待ち続けている。
「おかあさん、遅くなって、ゴメンね」
──あの日と同じ言葉とともに、娘・美輪がこの胸に戻ってくることを。
*写真は2004年7月4日に有楽町マリオン前で撮影しました。増元照明さんの選挙応援をされていた秋田美輪さんのお父さんです。
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秋田さんの詳しいご様子を知り、身近なものを感じます。我が家は貧乏だったから、孝子を充分探してあげる事が出来なかったと気づきます。もしおついでがありましたら、秋田さんにうらさんの本を見て頂けたら有り難いのですが。宜しくお願いいたします。いくしま
今回たまたま秋田美輪さんのお母さん手作りの「アクリルたわし」を小山さんにお渡ししたことで、この記事の存在を知りました。本当にご家族の皆さんの悲しみと苦しみは大変なものだと思いました。
うらさんの本の件、承知致しました。桜の季節ですがまだまだ寒いですね。体調を崩さないように、お互いに気をつけていきましょう。